飯川保(読み)いがわほ

日本歴史地名大系 「飯川保」の解説

飯川保
いがわほ

邑知おうち地溝帯北東端の現飯川町付近に比定される。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に「恵曾飯川保」とみえ、山城国石清水いわしみず八幡宮寺領であった。御封会料米の便補保で、すでに国司奉免を得て同宮寺の知行となっていたが、当時預所以下の押領があり、その停止が沙汰された。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文によると、(恵)郷と分離しているのが知られ、公田数はもと二四町三段三であったが、久安年中(一一四五―五一)宮寺領として立券された際五町三段三に定められた。

鎌倉時代、加賀の有力武士団である林氏の一族に能登国に居住した飯河三郎資光と三郎景光・左衛門尉光政兄弟の父子がおり、当保を本貫地とした(尊卑分脈)。建武元年(一三三四)八月、雑訴決断所の北陸道訴訟担当者の一人に飯河播磨房光瑜がいる(雑訴決断所結番交名)。観応三年(一三五二)九月、能登守護吉見氏頼の軍奉行を勤めていた飯河五郎左衛門尉が知られる(「得田章房軍忠状写」得田文書)。守護吉見氏の分国体制のもとで、応安元年(一三六八)七月飯河新左衛門尉が守護代に(同年七月二日「能登守護吉見氏頼書状」得江文書)、飯河左衛門尉藤光と同左近将監家光が守護使(同年七月二四日「能登守護使飯河藤光・同家光連署打渡状」同文書)それぞれ起用されており、同五年七月二三日には飯河三郎左衛門尉が守護代として確認できる(「能登守護吉見氏頼遵行状写」吉見文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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