飛街道(読み)ひだかいどう

日本歴史地名大系 「飛街道」の解説

街道
ひだかいどう

広義では信濃・越中・美濃など近隣の諸国から飛騨へ入るすべての道をいう。ここでは美濃から入る道で、中山道太田おおた宿(現美濃加茂市)から飛騨川沿いに高山へ至る道を飛騨街道とする。ほかに中山道中津川宿(現中津川市)から下呂げろ(現益田郡下呂町)へ入る南北なんぼく街道、小簗おやな(現関市)から関を経て津保つぼ川・馬瀬まぜ川に沿い萩原はぎわら(現益田郡萩原町)に入る津保街道、関から神淵かぶち(現加茂郡七宗町)を経て、金山かなやま(現益田郡金山町)へ入る道(飛騨西街道)などがある。

飛騨街道は古代の官道飛騨支路を原形として成立したと考えられ、京街道・益田ました街道・美濃街道とも称された。美濃の正保国絵図および元禄八年(一六九五)頃の飛騨国絵図、明和九年(一七七二)の飛騨国惣山絵図(県立歴史資料館蔵)などによると、太田宿東方で分岐して飛騨川の右岸下川辺しもかわべ村・中之番なかのばん村・石神いしがみ村・上川辺村・下麻生しもあそう(現加茂郡川辺町)上麻生村(現七宗町)さかひがし(現加茂郡白川町)、金山村に至る。同地で馬瀬川を渡り、飛騨国下原しもはら村・中切なかぎり(現金山町)三ッ淵みつぶち村・瀬戸せと村・保井戸ほいど村・門原かどはら村・三原さんばら村・しよう村を経、塚田つかだ渡でもり村に入り、湯之島ゆのしま村・東上田ひがしうえだ(以上現下呂町)中呂ちゆうろ村・萩原村上呂じようろ村・奥田洞おくだぼら村・宮田みやだ(現萩原町)坂下さかした村を通り、小坂おさか川を渡り、小坂村・門坂かどさか(以上現益田郡小坂町)なぎさ(現大野郡久々野町)で右岸に渡る。以後長淀ながとろ村・木賊洞とくさぼら村・引下ひつさげ村・無数河むすごう村で飛騨川と分れ、山梨やまなし(以上現同上)を経てみや峠を越え宮村(現大野郡宮村)石浦いしうら村・千島ちじま村・花里はなさと(現高山市)を経て高山町に至る。

街道
ひだかいどう

近世の富山城下から神通川沿いに南へ向かい、神通峡谷を抜けて飛騨国へ出る街道。中世に三津七湊に数えられた神通川河口の岩瀬いわせ(現富山市)からは、飛騨へ塩・魚をはじめ諸物資が送られたはずであり、当街道とほぼ同じ道が利用されたと考えられる。また同じ三津七湊の一つで、中世の越中では最も栄えた放生津ほうじようづ(現新湊市)から神通峡谷入口に至る、近世では射水いみず黒河くろかわ(現小杉町)より婦負ねい長沢ながさわ(現婦中町)を経て笹津ささづ(現細入村)に出る道も利用されたと考えられる(「水戸田より籠の渡に至る絵図」県立図書館蔵)。長享三年(一四八九)万里集九は越後より越中を通り飛騨へ抜けるにあたって、滑川なめりかわから神通峡谷の神通川東岸の吉野よしの(現大沢野町)猪谷いのたに(現細入村)を通って飛騨へ入っているが(梅花無尽蔵)、佐々成政により城下町富山が建設されてから以降は、当街道の道筋がいちだんと飛騨への重要街道となったことは間違いない。

近世の飛騨街道は富山城下から南下し、神通峡谷を通り、飛騨の高山町へ至る街道であり、神通川の東をたどる飛騨街道東道と西を通る飛騨街道西道がある。「増補大路水経」は飛騨街道西道を飛州往来本道とよんでいる。また飛騨側からは越中街道とよばれ、東街道・中街道・西街道があった。正保四年(一六四七)の「越中道記」によると、飛騨街道東道は富山より布市ぬのいち(現富山市)を経、神通川が富山平野に入る扇頂部の笹津村を経て、加賀藩領のうしませ村・寺津てらづ村・吉野村・猪谷村(現大沢野町)を経て飛騨へ入る。富山より飛騨国境まで八里一三町であった。「三州地理志稿」は飛州高山道、「増補大路水経」は飛州往来東路と記すが、ともに正保のルートとは異なる道筋を富山・笹津間で記載する。すなわち富山より小泉こいずみ村・下熊野しもくまの(現富山市)舟倉ふなくら(現大沢野町)を経て笹津に至る道筋で、正保のそれよりも真っすぐに南下する道となっていた。笹津よりは「越中道記」の記す道を通り、国境からは飛騨横山よこやま(現岐阜県神岡町)より高山町へ出た。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報