須恵庄(読み)すえのしよう

日本歴史地名大系 「須恵庄」の解説

須恵庄
すえのしよう

現在の須恵村に相当するとする所見はなく、現にしき町大字西にしを中心とし、錦町北部から相良さがら村南部にまたがる球磨川沿岸部に比定される。

当庄は人吉ひとよし庄や永吉ながよし庄などとともに、もとは郡名庄である球磨庄内の一部であった。鎌倉幕府成立後、永吉庄とともに鎌倉殿御領(関東御領)となり、建久三年(一一九二)八月に大江広元が預所職を得た。それは「肥後国球磨庄安富領内三善西村預所職事」といわれ(弘安六年七月三日「関東下知状案」平河文書)、この三善が永吉庄、西村が当庄に相当する。建久八年閏六月日の図田帳の一部と考えられる肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)の「鎌倉殿御領五百丁」のうちの「須恵小太良家基領百五十丁」、また前引の弘安六年(一二八三)の関東下知状案に引用される建保四年(一二一六)の図田帳にみえる「西村百五十町、須恵小太郎家基領」であり、同じく鎌倉殿御領の永吉庄の中心部と地域的にも隣接しているため、しばしば永吉庄内に混領され「件西村者雖為永吉内、給主各別地頭須恵尼令知行者也」などともいわれている。

須恵庄
すえのしよう

嘉応二年(一一七〇)の藤氏長者宣案(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)に「寺僧慶弘申千寛苅取須恵庄麦事、右、如解状者、所行頗渉濫吹間、可令千寛言上子細者」とみえる。これは千寛が須恵庄の麦を刈取る件について、興福寺僧の慶弘が摂関家に訴えたことに対するもので、千寛にその言上を求めたものである。これによると、須恵庄は摂関家領(本家)で、興福寺は領家、慶弘は給主と考えられる。次に、欠年の長者宣案(春日神社文書)には「八条院重々申給須恵庄事、沙汰未断之間、可停止苅取夏物之由、可令下知給」とある。これはおそらく前記と関係するものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報