日本大百科全書(ニッポニカ) 「移民」の意味・わかりやすい解説
移民
いみん
個人あるいは集団が職を求めるなどのさまざまな動機、原因によって、恒久的に、あるいは相当長期間にわたって、一つの国から他の国に移り住むこと。移民は、移民を送り出す国の側からは出移民または移出民emigration, emigrantとして、また同時に、移民を受け入れる国の側からは入移民または移入民immigration, immigrantとして、それぞれ別個に取り扱われる。なお、法制上における移民の定義は国によって異なり、国際的に統一された定義は存在しない。
移民の定義に関連した一つの問題は、移民と植民との異同である。この二つのことばは、いずれも民族の対外的発展を表現するという意味で共通点をもっているが、移民は国外移住を志す個人の移動の面を重視しているのに対し、植民は植民地の建設や経営を目的とする国家的活動の面からとらえられた概念である点に大きな相違がある。植民にも本国人の移住を伴うという点で、移民と類似した点があるが、自国の主権の及ぶ植民地への植民と、そうでない地域への移民とでは、いろいろな意味で大きな相違があることを認めないわけにはいかない。両者の区別は、植民地の比重の大きかった第二次世界大戦前の移民については重要性が大きいが、戦後、植民地のほとんどが独立するに至った現在では、問題はほぼ消滅したとみてよい。次に移民は難民とも区別されねばならない。戦争や革命は、いつの場合にも本国送還や引揚げ、逃亡や追放などの形で大量の難民をつくりだす。第一次世界大戦と、これに続くロシア革命により、戦時ならびに戦後にわたる難民は7000万人に達した。それ以降も局地的戦争や社会的混乱によりたくさんの人々が難民に加わっている。1999年1月現在、世界全体の難民の数は約2115万人といわれている。
[皆川勇一]
移民の形態
移民にはさまざまの形態があり、以下のように区分される。
(1)移民先の農場、工場、会社などに雇われるための雇用移民と、新たに土地を開拓し、そこに定着するための定着移民
(2)個々人の自由意志に基づく自由移民と、国家あるいは移民団体の計画に基づく計画移民
(3)国家その他から補助金ないし援助を受けて移民する補助移民と、個人の資金だけによる非補助移民
(4)移民先で分散してそれぞれの職につく分散移民と、移民後も集団をなして定住する集団移民
(5)あらかじめ雇用契約を結んで移民する契約移民と、多少とも資本をもち、自ら企業家となる企業移民
(6)移民期間の長短に基づく恒久移民と一時移民(出稼ぎなど)
[皆川勇一]
移民の条件
移民は一般に、移民者のよりよい生活への欲求を、直接の個人的動機として生ずるものであるが、さらに、さまざまの経済的、社会的、政治的、宗教的要因が移民を押し出す力として作用する。たとえば、ある宗派に対する圧迫、少数民族の迫害、革命、戦争、凶作、経済構造の変化、景気変動による失業、人口過剰などが移民の原因をなしてきたことは、数々の歴史的事実によっても明らかである。しかしながら、移民が行われるためには、一面、移民に好適な、あるいは移民を必要とする受入れ地域が必要であり、それゆえ、移民者にとって望ましい職業ないしは生活環境と、受入れ国における未開発地の存在や労働力への需要などが、移民を引き寄せる条件として作用する。以上のような送出国および受入れ国における移民を規定するさまざまの条件の変化が、移民の規模や方向や形態を左右しているのである。なお、移民に対する国家の政策も、移民に影響する大きな要因となる。
[皆川勇一]
移民の歴史
移民の歴史は人類の歴史とともに古いともいえるが、ここでは新大陸発見以後の移民について、ヨーロッパ移民を中心に概観してみよう。
(1)植民時代(16世紀から19世紀前半まで) 15世紀末の地理上の発見を契機に、ヨーロッパ諸国から新大陸(南北アメリカ、オーストラリア)および南アフリカへの植民が開始される。最初の移住者はスペイン人で、1509年から1740年までに、セビリア港から渡航した移住者は約15万人であった。17世紀および18世紀の移住はイギリス人が中心であった。17世紀の中ごろ、ニュー・イングランドおよびバージニアに各8万人、メリーランドに2万人が渡航したといわれる。17世紀を通じてのイギリスから新大陸への移住者は約25万人、18世紀に約150万人であった。この150万人のうち、50万人は長老教会派のアイルランド人であり、5万人は犯罪者の強制移住であった。19世紀に近づくと、スペインおよびドイツからの移住もしだいに増加した。
ヨーロッパ諸国は「新大陸発見」以来、広大な領土を所有していたにもかかわらず、19世紀に至るまで、それほど多くの移民を出していない。それには多くの理由がある。第一に、重商主義時代には、本国の人口が多ければ多いほど国家にとって有利であり、人口を海外に移住させることは不利と考えられていた。それゆえ、植民地を確保して国外貿易の発展に必要な限度においてのみ海外移住を認める政策をとっていた。第二に、ヨーロッパ諸国間の政治情勢は、19世紀に入るまできわめて不安定であり、植民地開発に手を伸ばす余裕が少なかった。第三に、帆船による大洋横断は危険であり、また帆船では大量の移民を輸送できなかった。最後に、大量の移民を送出するには、ヨーロッパの人口はなお十分多くはなかったのである。
なお、ヨーロッパからの移民以外に、本期においてとくに注目すべき移住に、アフリカ黒人の奴隷売買がある。16世紀に始まり、19世紀までに非合法に行われたものを含む総計は2000万人に達したといわれている。うち1500万人がアメリカ合衆国に運ばれた。
(2)移民発展期(19世紀中ごろから第一次世界大戦まで) ヨーロッパ諸国からの海外移住者が増大するのは、19世紀なかばからで、その後第一次世界大戦まで、ヨーロッパ諸国の海外移住は全盛期を画した。この原因は産業革命の結果各国の産業が発展し、それとともに海外拓殖、海外貿易、海外投資も盛んとなったこと、自由主義の政策により海外移住に関する諸制限が撤廃され、むしろ海外移住を奨励する政策がとられたことなどである。他方、漸次独立をかちとった北アメリカ、南アメリカの旧植民地国家が、その国力の増大、未開地の開拓のため移民を必要とし、来住者に補助やさまざまの便宜を与えたり、未開地の無償あるいは低価格での払下げが行われた。ここに、自発的意志をもって新開地に移住し、新しい運命を開こうとする自由移民が大量に出現するに至り、汽船の発達がそれに拍車をかけることになった。19世紀におけるヨーロッパ人口の急増も大量移民の間接的条件として重要である。
1846年からの年平均移住者数は、政治的理由や、母国および移民先の地域の経済変動により、年々の移民数に大きな増減がみられるが、その増大傾向は明白である。1820年代および30年代には年々3万人に満たなかった移住者は、50年代には10倍、20世紀に入ると40倍にも激増し、最高140万人を超えるに至った。おもな送出国はイギリス(1846~1915年の間に1243万人)、イタリア(817万人)、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア(合計511万人)、スペイン、ポルトガル(合計473万人)、ドイツ(429万人)、帝政ロシア、ポーランド、フィンランド(合計388万人)、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク(合計213万人)である。このうちイギリスがもっとも早くから移民を出していた。19世紀前半のみでその数はすでに240万人に達した。1885年ごろまで、イギリスに次いで多くの移民を出していたのはドイツで、1880年代に最高に達したが、その後は国内工業の発展による雇用増により海外移住は漸減した。スカンジナビア諸国はドイツよりやや遅れ、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの順に移民が盛んとなった。数そのものは比較的少ないが、国内人口に対する割合はかなり高いものであった。しかし、母国の生活水準の向上と、移住先での南欧・東欧移民との競争激化とにより、移住者は減少した。以上の国々は早期に移住を開始したので旧移住old migrationとよばれる。
旧移住は1890年代から減少し、これにかわって南欧・東欧からの移住が盛んとなった。これを新移住new migrationとよぶ。新移住のうちもっとも数の多いのはイタリアである。イタリア移民は1850年代には10万人に満たなかったが、19世紀末ごろから急増し、1890年代にはイギリスにかわる第一の移民国となり、1906~10年には年々40万人を超える移民を送り出していた。スペイン、ポルトガルの移民も19世紀末ごろから急増した。東欧からの移民は南欧よりも遅れ、20世紀に入ってからの移民が大部分をなしている。移民受入れ国の第一はアメリカ(1821~1932年の間に3424万人)、ついでアルゼンチン(641万人)、カナダ(521万人)、ブラジル(443万人)、オーストラリア(211万人)、西インド諸島(159万人)の順であった。
なお、ヨーロッパ以外からの移民としては、中国(16世紀以降950万人)、インド(350万人)がとくに多かった。おもに隣接諸国への移民であったが、19世紀以後はアメリカや中央アメリカ、南アメリカ、アフリカへの移民もかなりみられた。
(3)移民制限期(第一次世界大戦から第二次世界大戦まで) 海外移住は1910年前後に最高潮に達したが、以後漸減し、第一次世界大戦とともにさらに急減、第一次世界大戦後は一時増勢を示したが、大恐慌以後ふたたび著しく減少し、第二次世界大戦期にさらに減り、年6万人を割るに至る。移民減少の原因として、二度にわたる大戦および大恐慌の影響もさることながら、最大の直接的原因は移民制限政策である。アメリカは1921年移民法により年間移民総数を35万人とし、1924年移民法では16万人に縮小した。他の受入れ国も制限措置をとるに至り、とくにアジア人の移民は、ラテンアメリカを除き事実上禁止されるに至った。
(4)第二次世界大戦以降 第二次世界大戦以後の移民の特徴は、その変動の激しさである。国際間の政治的、経済的関係の変化、ならびに送出国、受入れ国の国内条件により、国際移民の流れはその方向規模および構成を著しく変えてきた。4段階に区分して考えてみよう。
第1段階は1950年代初めまで。この時期の最大の移住は、第二次世界大戦とそれに伴う政治的後始末の直接の結果としての本国送還や難民の移動で、世界全体で5000万人以上に達した。だが、これと並行して戦前の移民の流れも再開され増大し始める。
第2段階は1950年代。この時期にも新たな難民が生まれるが、数は第1段階よりはるかに少なく、移民の数を下回った。移民のおもな流れは、ヨーロッパから北アメリカ、南アメリカ、オセアニアという形で、第二次世界大戦前の型と類似していた。50年代終わりから、第3段階に支配的となる開発途上国から西欧先進国への移動が増え始める。とくにイギリス、フランスは旧植民地であるインド、パキスタン、ジャマイカ(以上はイギリス)、アルジェリア(フランス)からの移民を多数受け入れるようになる。
1960年代および70年代前半が第3段階をなす。この時期に、前述の新しい移民の流れが支配的となり、ヨーロッパにおける移民は、域内の貧しい国々(南欧、東欧)および北アフリカ、中近東からの西欧先進諸国への移動という形が明確となる。伝統的な受入れ国である北アメリカやオセアニアは、第2段階より多くの移民を受け入れるようになったが、ヨーロッパ移民の比重は低下し、ラテンアメリカ、アジア、アフリカからの移民が増えた。1960年ころからラテンアメリカは受入れ地域から送出地域に転換した。国際移動の流れを変化させた要因は、北西ヨーロッパにおける経済成長とそれに伴う労働力需要の増大である。70年代初めの西欧諸国には家族を含め1500万人の移民労働者が存在した。こうした西欧への大量の下層労働者の流入こそ、この時期のもっとも特徴的な移民の流れであった。
これと並ぶいま一つの問題として、少数ではあるが、高度の技術をもつ人々の移動、つまり頭脳流出brain drainがある。これはやや貧しい資本主義国、もしくは開発途上国の科学者、技術者がより高い報酬と機会を求めて豊かな先進国へ流出することで、受入れ国では頭脳獲得brain gainという。1960年代前半までは、カナダ、イギリス、旧西ドイツ、オランダ、スイス、スウェーデン、日本からアメリカへの流出が顕著だったが、60年代からは、インド、パキスタン、フィリピン、メキシコなどからの医師、看護婦、科学者のアメリカ、イギリス、カナダへの流出が中心となった。その数は60~75年で30万ないし40万人といわれる。この流れは、出身国によって負担される高額の教育費および必要な専門技術者の喪失の問題として重大である。
1970年代後半以後の第4段階の出発点はオイル・ショックによる経済条件の変化で、これが国際移動の流れを変える契機となった。西欧工業化諸国への移民労働者の流入は抑制された反面、石油輸出国への流入が増大し始める。中東および北アフリカの石油輸出国の移民労働者は5年間に倍増し、75年には200万人に達した。おもな受入れ国は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェート、イラン、オマーン、カタール、アルジェリア、イラクであり、送出国は、エジプト、ヨルダン、パキスタン、イエメン、インドなどで、東南アジア諸国からの流出も増加した。元来、人口の少ない石油輸出国では、移民労働者の労働力人口に占める比重は大きく、アラブ首長国連邦やカタールでは8割以上にも達し、深刻な社会的摩擦の可能性を秘めている。
[皆川勇一]
日本の移民
(1)明治以降第二次世界大戦まで 徳川幕府が家光(いえみつ)以来の海外渡航の禁制を解いたのは1866年(慶応2)である。1868年(明治1)以後1941年(昭和16)までの移民数は77万6000人に達している。おもな移民先は、ハワイ23万人、ブラジル18万9000人、アメリカ10万7000人、旧ソ連5万6000人、フィリピン、グアム5万人、カナダ3万5000人、メキシコ1万5000人などであった。このなかには満州(現中国東北部)への開拓農の移住32万人は含まれていない。1896年(明治29)制定の移民保護法における移民の定義は「労働ニ従事スルノ目的ヲ以(もっ)テ(清韓(しんかん))両国以外ノ外国ニ渡航スル者及其(そ)ノ家族ニシテ之(これ)ト同行シ又ハ其ノ所在地ニ渡航スル者ヲ謂(い)フ」とされていたからである。満州への移民を含め、第二次世界大戦前までの移民の合計は約110万人と考えられる。この数字は、ヨーロッパ諸国の移民、とくにイギリス(植民時代から第二次世界大戦前まで2000万人)、イタリア(1000万人)のみでなく、ドイツ(500万人)と比べても、はるかに少ない。
日本における本格的な移民は1886年(明治19)日布渡航条約に基づく布哇(ハワイ)への移民とともに始まる。条約締結の前年に956人が甘蔗(かんしょ)(サトウキビ)園労働者として渡航したのを最初に、以後94年までの10年間に移住者は3万人に達した。政府間の条約に基づく移民ということで、これを官約(かんやく)移民という。その後、94年に移民保護規則が公布され、さらに96年にこれが移民保護法となる。ハワイとの官約移民から政府が手を引いてから、移民はもっぱら移民会社(1896年には20社を超える)を通じての契約移民の形で行われており、弊害も続出し、移民者の保護が叫ばれていた。移民保護法の制定以後、移民は大幅に増加し、大正末期まで、ハワイ、アメリカ、カナダなどを中心に年平均1万6000人の移住が行われた。しかし、ハワイ、アメリカへの移民は、1908年(明治41)日米紳士協約により制限され、さらに24年の移民法(いわゆる排日移民法)により激減する。
この時期に北アメリカにかわる移住先として比重を高めるのがラテンアメリカ、とくにブラジルである。ブラジルへの最初の移民は、1908年笠戸丸(かさどまる)によるコーヒー園への契約移民799人の移住に始まり、33~34年(昭和8~9)の最盛期には年間移住者は2万人を超えるに至った。だがブラジル移民も、34年制定の新憲法により制限を受け、以後漸減する。
アジア地域への移民は、フィリピンを除き、それまで少数にとどまっていたが、1935年以後、中国、満州への移民が急増する。とくに、36年から満州移民20か年100万人計画が推進され、集団農業移民=分村移民という形で、全国農村地域、なかでも、長野、山形、熊本、福島、新潟、宮城、岐阜の諸県から多くの開拓団、義勇隊が移住した。第二次世界大戦敗戦までの満州開拓者の数は32万人に達した。
第二次世界大戦前における前述の海外移住により、1940年(昭和15)の外国在留日本人移民数は170万人(満州82万人、中国本土37万人、ブラジル20万人、アメリカ10万人、ハワイ9万人、その他の地域12万人)に達したが、これらは第二次大戦後、南北アメリカ・ハワイを除く地域からことごとく引き揚げるに至った。
(2)第二次世界大戦後から1980年ごろまでの海外移住 第二次世界大戦後の海外移住者数は1981年(昭和56)まで累計23万9679人となっている。その年次別の推移をみてみると、1951年以後、移民は増加し始め、57年には1万6620人とピークに達した。しかし、以後は減少、いったん4000人台となったのち、71年、72年にふたたび増加、以後減少し、3500人前後の数字を示していた。70年代後半から移民が振るわないのは、ヨーロッパ先進諸国以上に、経済発展に基づく強い国内労働力需要と国内生活水準の上昇により、一般の移住意欲が薄らいだためであろう。
先の海外移住者の数字は旅券発給統計に基づくもので、この数字から職業移動を中心とする渡航費貸付および支給移住者を差し引いた約17万人は、自費による移住者であり、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどに多い。とくに、アメリカへの移住のほとんどは自費移住者であるが、その大部分が国際結婚(第二次世界大戦後の、いわゆる戦争花嫁などを含む)、養子縁組である。
次に渡航費貸付および支給移住者についてみてみよう。その数は、南アメリカ移民の再開された1952年度から81年度までの累計で7万1491人。年度別推移では、52年度から60年度までは増大し、60年度8386人をピークとして以後は急減、77、78年度には500人を割るに至る。60年度以後の移民の急減は、主として農業移民の減少による。第二次世界大戦後の移民再開以来、農業移民は圧倒的比重を占め、とくに56~61年度の間は毎年5000人を超えていたが、その後激減し、年間100人前後となるに至った。以後、農業にかわり、工業およびその他の専門技術者、技能者の比重が著しく増大した。
この時期に移住者の増加が顕著となったカナダ移民についてみると、1977~81年度総数959人のうち、農業48人、技術628人、商業その他119人、近親呼び寄せ164人で、専門技術者の移民が中心を占めている。技術者の内容も、以前は自動車組立て・修理や旋盤工などが多かったが、その後はプログラマー、弱電技術者などが中心で、要求される専門技術も高度化した。カナダの1962年移民法改正およびアメリカの1965年移民・国籍法改正にみられたように、移民受入れ国では、出身国を問わず能力・技術ある者を受け入れる政策をとる国が多くなった。
(3)1980年代以降の出移民および入移民 日本からの出移民の減少傾向は1980年代に入っても続き、80~84年の年平均移住者(外務省が旅券を発給した際に永住のためと答えた人)の数は2957人にまで減少したが、85~89年には平均3056人で3000人の線を維持している。
日本からの出移民のうち、さらに渡航費支給移住者について第二次世界大戦後の動向を検討してみよう。戦後におけるその総数は1952年4月~87年3月まで6万6690人で、その5年間ごとの平均移住者数を算出してみると、55~59年が6467人でもっとも多かった。その後この数は急激に減り始め80~84年は147人、85~89年は48人、90年はわずかに14人で、それ以後の数字の発表はない。この渡航費支給移住者の著しい減少が海外移住日本人の1980年代以降における性格変化をもっともよく表している。つまり、第二次世界大戦後の海外移民の性格を、先にあげた六つの対照的な移民の形態にあてはめてみるならば、農業移民の減少にも絡んで定着型から雇用型に、国家の援助に頼らず自発的意志に基づくという意味で計画型から自由型に、また補助型から非補助型に、集団移民から分散移民に、契約移民から企業移民に、さらに一時移民から恒久移民に転換するに至った。移民のこうした性格の変化が前記の数的変化にも表れている。日本の移民は第二次大戦前の出稼ぎ型あるいは窮迫型から、自らの自由意志と自己選択に基づく自立型移民に変化したのである。
次に日本への入移民についてはどうだろうか。登録外国人の総数は1952年の57万3318人から、80年に77万6000人、95年に136万2371人、2000年に168万6444人へと増加している。つまり在日外国人の数は1952~80年に20万人以上、さらに80~95年には58万人以上、95~2000年の5年では32万人以上増えている。なお、第二次世界大戦前1940年10月1日現在の在日外国人の数は3万9237人にすぎなかった。これが52年に57万人を超えたのは、戦後も日本にとどまった在日韓国・朝鮮人および台湾人が、外国人登録法の制定などにより、永住資格保有外国人として52年の数字に含まれたからである。ともかく、日本からの出移民数(1945~89年の海外への移住者数26万2573人)に対し、日本への入移民の増加は、はるかに多数といえる。また、85~97年までの13年間の出国者を差し引いた外国人入国者の合計は131万9000人(概数)で、この間、毎年10万人ずつ増となっている。なお、この数字は出入国管理庁などの把握した合法的な出人国者の数字に基づくもので、これ以外にボートピープル(難民)などの形での密入国者の存在も考慮せねばならない。
[皆川勇一]
入移民問題
世界全体についてみてみると、経済的に豊かな国々は、日本と同様あるいはそれ以上の入移民問題を抱えている場合が多い。1990年の西欧6か国における総人口に対する外国人居住者割合は、スイス16.3%、ベルギー9.1%、ドイツ7.3%(91年)、フランス6.3%、スウェーデン5.6%、オランダ4.6%であるのに対して、日本は97年でもなお0.95%にとどまっており、この点からみれば比重は軽いといえる。むしろ、外国人労働者の労働面・生活面での満足度を高めるように配慮しながら、どのような形で受け入れ、日本経済の発展や社会生活の充実に貢献してもらえるかを真剣に考えるべきだろう。
今後さらに進行する少子化・高齢化問題に直面している日本にとって、外国人労働力の受入れは、将来のいっそうの発展と安定を確保するためのだいじな選択肢の一つである。
なお、日本の移住業務は1963年に設立された海外移住事業団を改組した国際協力事業団(JICA(ジャイカ))、さらに2003年以降はそれを再編した国際協力機構(JICA)が中心となって行っている。
[皆川勇一]
『福武直編『アメリカ村――移民送出村の実態』(1953・東京大学出版会)』▽『泉靖一・斎藤広志著『アマゾン――その風土と日本人』(1954・古今書院)』▽『泉靖一編『移民』(1957・古今書院)』▽『蒲生正男編『海を渡った日本の村』(1962・中央公論社)』▽『ブラジル日系人実態調査委員会編『ブラジルの日本移民』(1964・東京大学出版会)』▽『新保満著『日本の移民――日系カナダ人に見られた排斥と適応』(1977・評論社)』▽『古屋野正伍編『アジア移民の社会学的研究』(1982・アカデミア出版会)』▽『厚生省大臣官房政策課監修、人口問題審議会・厚生省人口問題研究所編『国際人口移動の実態――日本の場合・世界の場合』(1993・東洋経済新報社)』▽『経済協力開発機構編、日本労働研究機構SOPEMI研究会訳『国際的な人の移動の動向――先進国への挑戦』(1995・日本労働研究機構)』▽『佐々木敏二著『日本人カナダ移民史』(1999・不二出版)』▽『エマニュエル・トッド著『移民の運命――同化か隔離か』(1999・藤原書店)』▽『赤木妙子著『海外移民ネットワークの研究 ペルー移住者の意識と生活』(2000・芙蓉書房出版)』▽『古賀正則編『移民から市民へ――世界のインド系コミュニティ』(2000・東京大学出版会)』▽『内山勝男著『蒼氓の92年――ブラジル移民の記録』(2001・東京新聞出版局)』▽『本間圭一著『パリの移民・外国人――欧州統合時代の共生社会』(2001・高文研)』▽『伊予谷登士翁著『グローバリゼーションと移民』(2001・有信堂高文社)』▽『ギ・リシャール監修、藤野邦夫訳『移民の一万年史――人口移動・遥かなる民族の旅』(2002・新評論)』▽『坂口満宏著『日本人アメリカ移民史』(2001・不二出版)』▽『中野卓共編『昭和初期一移民の手紙による生活史――ブラジルのヨッチャン』(2006・思文閣出版)』