青柳庄(読み)あおやぎのしよう

日本歴史地名大系 「青柳庄」の解説

青柳庄
あおやぎのしよう

現加茂町の青柳を遺称地とし、青柳杣ともみえるので、周辺の山間部を含む一帯に推定される。建武三年(一三三六)一一月二六日、本圀ほんこく(現京都市山科区)に造営料所として寄進された(「足利尊氏寄進状」本圀寺文書)。貞和二年(一三四六)五月、京都鴨社造営のため青柳杣採の煩停止が命じられている(同月一九日「高師直下知状」南狩遺文)。なお草苅氏系譜(萩藩閥閲録)によると、先祖貞継は足利尊氏に属し功によって貞和年中に当庄地頭職を賜ったという。文和二年(一三五三)六月一日、近江園城おんじよう寺に地頭職が寄進された(「足利義詮寄進状」園城寺文書)。同三年四月八日には佐々木道誉に宛行われ(「足利尊氏下文」佐々木文書)、明徳三年(一三九二)には孫の高詮に相伝されていたが、赤松越後守の掠領が続き、四月二三日に幕府より安堵されている(「細川頼元奉書」同文書)


青柳庄
あおやぎのしよう

皇室領尼寺あまでら庄の一郷であった東神護寺ひがしじんごじ郷が別相伝され青柳庄となる。現青柳あおやなぎ町が遺称地とされる。建久三年(一一九二)三月日の後白河法皇院庁下文(大徳寺文書)に「美濃国尼寺得満塩田神護寺」とみえ、後白河院の妃高階栄子の所領の一部であった。嘉慶三年(一三八九)二月五日の冷泉道意寄進状(高橋義彦氏所蔵文書)によれば、冷泉中将入道以下に相伝されてきた「尼寺庄内東神護寺郷」は「安禅寺長老」に寄進され、青柳と称した。のち山科家領となっていたが、「山科家礼記」文明一二年(一四八〇)一一月一五日条には山科家不知行所の一つとして「東神護寺ト申也、同国青柳庄」と記され、西神護寺の地もみえるが、比定地は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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