雫石村(読み)しずくいしむら

日本歴史地名大系 「雫石村」の解説

雫石村
しずくいしむら

[現在地名]雫石町 雫石

葛根田かつこんだ川と雫石川合流点の北に広がり、南側を秋田街道が通る。雫石通の中心地として代官所や駅が置かれた。現在の町内では雫石の部分のみ大字がなく、通称となっている。村名の由来は西根にしねの雫石神社境内の清水が銚子の形をした岩から垂れる「滴石たんたん」によるという。中世には滴石と記され、興国元年(一三四〇)一二月二〇日の南部遠江守(政長)宛北畠顕信御教書(遠野南部文書)に滴石とみえ、同年六月頃に陸奥に到着した鎮守府将軍北畠顕信は、南部氏らが岩手西根を攻略して砦を築いたので、翌年春に滴石氏・和賀氏とともに紫波しわ郡の北朝方を退治することなどを政長に命じている。同二年閏四月二〇日には、顕信は南部氏らが紫波・岩手両郡を攻略したので、葛西氏・和賀氏・滴石氏らとともに、北朝方に奪われていた府中(現宮城県多賀城市)を攻撃するために出陣することを修理権大夫(結城親朝)に伝え、協力を要請している(「五辻清顕書状」伊勢結城文書)。しかし翌三年一〇月の三迫さんのはさま(現宮城県栗原郡)合戦に敗れて以降、「国司之舎弟」顕信は当地に居住していた(貞和四年一一月日「鬼柳義綱陳状写」鬼柳文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報