隼人(古代の南部九州の居住民)(読み)はやと

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

隼人(古代の南部九州の居住民)
はやと

古代の南部九州の居住民。『古事記』『日本書紀』神代巻の、いわゆる海幸(うみさち)・山幸(やまさち)神話隼人の祖(海幸彦=ホデリノミコトまたはホノスソリノミコト)が登場するが、それを別にすると、両書の履中(りちゅう)天皇の条以後にみえ、7世紀後半の天武(てんむ)朝以後になるとその記事が具体的になってくる。南部九州にはそれ以前クマソ(熊襲、熊曽)が居住していたことが、やはり両書にみえるが、その後身とも考えられる。天武朝以後の隼人は朝廷に朝貢し、相撲(すもう)を見せたり歌舞を奏上したりしているが、8世紀以後はその朝貢が「六年相替」といわれるように定期的になり、その引率者である隼人の首長層はしばしば位を授けられている。また、これより早く大和(やまと)朝廷に服属した隼人の一部は、畿内(きない)各地に移住させられており、屯倉(みやけ)の警衛などにあたっていたとみられる。

 7世紀後半の隼人は、その居住地によって阿多(あた)(薩摩(さつま)半島)隼人、大隅(おおすみ)隼人と区分されていたが、8世紀には阿多隼人にかわって薩摩隼人の名称がみられることからすると、隼人の居住地は概して現在の鹿児島県を主体としていたのであろう。8世紀になって薩摩・大隅両国が日向(ひゅうが)国から分立し、律令(りつりょう)支配が浸透すると、隼人は朝廷に対し抵抗し、720年(養老4)には大規模な抗戦を起こした。このとき、大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺され、大伴旅人(おおとものたびと)を持節大将軍とする征隼人軍が派遣されている。律令制では衛門府(えもんふ)に隼人司が設置されており、元日・即位などの祭儀に参加するほか竹細工などの製作にあたっている。隼人の系統についてはインドネシア系などとする説があるが明らかでない。

[中村明蔵]

『大林太良編『隼人』(1975・社会思想社)』『中村明蔵著『隼人の研究』(1977・学生社)』

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