阿部泰蔵(読み)あべたいぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿部泰蔵」の意味・わかりやすい解説

阿部泰蔵
あべたいぞう
(1849―1924)

実業家。日本における近代的生命保険業の創始者。三河国(愛知県)吉田の医師兼儒者、国学者の家に生まれ、藩医阿部家の養嗣子となる。幼少期から学者を志し、江戸蘭学(らんがく)を学び、1868年(慶応4)慶応義塾入門、卒業後一時塾頭および大学南校(東京大学の前身)の教授を経て、1871年(明治4)文部省出仕。1876年アメリカに留学し、帰国後官を辞し、1881年日本最初の近代的生命保険会社である明治生命保険会社(現、明治安田生命保険)を設立、社長就任した。同社の成功により明治時代の生命保険業界の代表的な存在となる。アメリカのオハイオ州にある保険殿堂に名を連ねる日本人4名の1人。作家の水上滝太郎実子

[由井常彦]

『本邦生命保険創業者明治生命編『阿部泰蔵伝』(1971・明治生命保険相互会社)』


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朝日日本歴史人物事典 「阿部泰蔵」の解説

阿部泰蔵

没年:大正13.10.22(1924)
生年:嘉永2.4.27(1849.5.19)
明治大正期の実業家。日本最初の生命保険会社設立者。三河国(愛知県)八名郡吉田村の医師豊田鉉剛の3男。医師阿部三圭の養子。はじめは蘭学,のち英学を習い,慶応1(1865)年慶応義塾に入り,維新後,明治3(1870)年大学南校で教え,翌年文部省出仕・小教授,一時退官後,9年文部省6等出仕として文部大輔田中不二麿に随行して米国へ派遣され保険事業を視察。福沢諭吉門下の小泉信吉や荘田平五郎,早矢仕有的らと14年7月9日明治生命保険会社を設立し,頭取に選ばれる。資本金10万円の有限責任で福沢諭吉や朝吹英二も出資した。「ライフ・インシュアランス」を「生命請負」「人命保険」と訳していたが,このころ「生命保険」に定着。東本願寺僧侶が身体検査義務付けや不健康者拒否に反対し発起人を辞退する混乱もあった。24年明治火災保険創立,生命保険協会初代理事長,三菱系企業の取締役を歴任。大正6(1917)年明治生命会長を辞任,荘田に譲るが,この間に創立時884件,48万5000円の保険契約高は2万6414件,2629万円に,また100円の株は2000円以上の市価とされた。9男4女をもうけた。「勤直で一事に一誠を捧げた成功の手本」と評された。<参考文献>矢野滄浪『財界之人百人論』,『明治生命百年史』『近代生命保険生成史料』

(小林正彬)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿部泰蔵」の解説

阿部泰蔵 あべ-たいぞう

1849-1924 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)2年4月27日生まれ。母校慶応義塾の教授,塾頭となる。文部省にはいり,アメリカを視察。明治14年荘田(しょうだ)平五郎とともに日本初の生命保険会社明治生命を設立し,社長に就任。のち明治火災保険社長などをつとめた。大正13年10月22日死去。76歳。三河(愛知県)出身。本姓は豊田。

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