関寺(読み)セキデラ

デジタル大辞泉 「関寺」の意味・読み・例文・類語

せき‐でら【関寺】

滋賀県大津市逢坂にあった寺。今は廃寺。5丈(約15メートル)の弥勒菩薩像で知られた。

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精選版 日本国語大辞典 「関寺」の意味・読み・例文・類語

せき‐でら【関寺】

[一] 滋賀県大津市逢坂にあった天台寺門宗の寺。万寿二年(一〇二五)創建。園城寺五別所の一つ、近松寺(ごんしょうじ)に属した。門前に牛塔(うしのとう)があり、小野小町が晩年庵(いおり)を結んだ所と伝えられる。慶長年間(一五九六‐一六一五)兵火で焼失後、長安寺(時宗)となる。世喜寺
※後撰(951‐953頃)雑二・一一二六・詞書「あふみの関寺にこもりて侍りけるに」
随筆戴恩記(1644頃)上「関寺・道成寺・猩々(しゃうじゃう)の乱等は、いふに及(およば)ず」

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日本歴史地名大系 「関寺」の解説

関寺
せきでら

世喜寺とも記す(世喜寺中興縁起)。山城と近江を結ぶ逢坂おうさか越沿いにあった寺院で、跡地は現在の大津市逢坂地区とされる。逢坂関に隣接するところから寺名が生じたのであろう。創建年代は明らかでないが、万寿二年(一〇二五)六月二〇日の奥付をもつ「関寺縁起」によると、関寺の本尊五丈の弥勒仏は関寺大仏ともよばれ、都人にも知られていた。しかし天延四年(九七六)六月一六日の大地震で国分寺大門・近江国衙の庁舎などが倒壊したとき関寺大仏も破損した(扶桑略記)。このため恵心僧都源信がその復興を志し、弟子の延鏡の尽力によって寛仁二年(一〇一八)本尊が完成、治安二年(一〇二二)に伽藍も完成した。このとき工事に使うよう京都清水寺の僧が寄進した役牛(黒毛)が、実は迦葉仏(釈迦以前に出現した仏)の化現であるとする夢告があり、これを聞いた殿上人が競ってこの霊牛に結縁したという。

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改訂新版 世界大百科事典 「関寺」の意味・わかりやすい解説

関寺 (せきでら)

世喜寺とも書く。逢坂関(おうさかのせき)の東の街道ぞいにあった古寺。創建年次は不詳。古くより有名であったが,976年(貞元1)大地震で倒壊。のち恵心僧都源信が弟子延鏡に命じて再興させた。このとき,役牛のなかに迦葉(かしよう)仏の化現との夢告のあった霊牛があり,そのうわさが広まって,藤原道長をはじめ多くの善男善女が参詣して霊牛に結縁(けちえん)した。霊牛は夢告のあった日時に入滅するが,源経頼もそれに立ち会い,その直後に菅原師長が《関寺縁起》を書いた。霊牛の供養塔は関寺跡とされる長安寺(大津市逢坂)に今も残る。平安時代には関寺の5丈の弥勒仏は関寺大仏といわれ,東大寺,智識寺(河内)の本尊とともに三大仏とされた。関寺は南北朝時代以後,荒廃したらしいが,長く地名としてその名をとどめた。鎌倉時代の関寺門前の様は《一遍上人絵伝》に見える。また老衰落魄した小野小町が関寺のかたわらの庵に住んでいたとする伝説(謡曲《関寺小町》など)があり,長安寺にはその遺跡と称するものがある。
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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「関寺」の解説

関寺
(通称)
せきでら

歌舞伎浄瑠璃の外題。
元の外題
当世七小町
初演
元禄14(江戸・市村座)

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動植物名よみかた辞典 普及版 「関寺」の解説

関寺 (セキデラ)

学名Rhododendron hortense
植物。ツツジ科ツツジの園芸品種,常緑低木

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