長野城跡(読み)ながのじようあと

日本歴史地名大系 「長野城跡」の解説

長野城跡
ながのじようあと

[現在地名]小倉南区長野

ぬき山から北に延びる標高二三〇メートルほどの丘陵上にあった中世山城。保元二年(一一五七)平氏一族の平康盛が豊前下向、長野城を築き、長野氏を称したとする説もあるが(「長野家譜」「長野系図」小倉市誌)、長野庄地頭職であった中原長野氏の築城であろう。同庄鎮守若宮八幡宮の移座の伝承から、明応年間(一四九二―一五〇一)頃の築城とする説もある。

長野城跡
ながのじようあと

[現在地名]諫早市長野町

高来たかく郡内に築かれた中世の城館の跡。城主は文永元年(一二六四)宗像氏経から配分された長野村地頭職を下地中分した宗像氏業と長野氏郷が想定される。貞和六年(一三五〇)頃までは同村内の福久ふくひさ名を宗像七郎が知行しており(同年四月二一日「足利直冬宛行状」橘中村文書)、当城を用いた可能性がある。南北朝期には南朝方の拠点の一つであったらしく、応安七年(一三七四)三月二八日今川満範の軍勢は永野城を攻撃、六月一六日にも永野城で交戦があって深堀時広・時久の軍勢が参陣している(同年六月日「深堀時広軍忠状」深堀文書など)。さらに七月二三日には九州探題今川了俊が高来郡凶徒を討つために伊佐早いさはやに出陣し、二五日から深堀時広・同時勝・同時久・福田兼親・式見兼綱らの軍勢が当城を攻撃、また地家(地下か)への放火なども行われている(同年八月日「深堀時勝軍忠状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「長野城跡」の解説

ながのじょうあと【長野城跡】


長野氏城跡(ながのししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android