釜蓋城跡(読み)かまぶたじようあと

日本歴史地名大系 「釜蓋城跡」の解説

釜蓋城跡
かまぶたじようあと

[現在地名]千々石町小倉

しろ(一五四メートル)に築かれた中世の城跡。史料上は千々石城とも称される。島原の西目口の要所にあたり、神代こうじろ(現国見町)とともに要害に置かれて島原半島への進入を防御する役割をもったのであろう。永禄―元亀年間(一五五八―七三)有馬義純は深堀衆が茂木もぎ(現長崎市)に進出したのを聞及び、千々石から派兵したが、陣屋・兵粮米などが焼失したため千々石に軍勢を戻している(二月一三日および三月二日「有馬義純書状写」福田文書)大村純忠時代の大村館小路割之図(富松神社蔵)に「高来郡千々石城主」の葦塚掃部は大村純伊の代に大村に移ったと記されるが、永禄四年伊勢神宮の大麻を受けた「葦塚掃守尉」にかかわる人物であろう(「肥前日記」宮後三頭太夫文書)

一五六三年頃イエズス会の修道士アルメイダは大村純忠の弟、おそらく千々石家を継いだ有馬直員と思われる人物をその居城に訪ねている(一五六三年一一月一七日「アルメイダ書簡」イエズス会士日本通信)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報