金峯神社(読み)きんぶじんじや

日本歴史地名大系 「金峯神社」の解説

金峯神社
きんぶじんじや

[現在地名]吉野町大字吉野山小字二ノ鳥居

吉野水分みくまり神社前の道を南に約一・五キロ、奥千本おくのせんぼんの東に鎮座。祭神は金山毘古かなやまびこ神。金精こんせい明神・金山かなやま明神と称し、吉野八社明神の一。旧郷社。「延喜式」神名帳の吉野郡金峯カネノミタケノ神社名神大、月次相嘗新嘗」に比定される。式内社金峯神社は「文徳実録」仁寿二年(八五二)一一月九日条に「特加大和国金峯神従三位」、同三年六月一〇日条に「以大和国金峯神預於名神」、斉衡元年(八五四)六月一日条に「以大和国金峯神、預於相嘗月次并神今食祭也」と記され、「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条には「金峰神」に正三位を授くとある。後醍醐天皇は延元二年(一三三七)一月一〇日正二位に神階を進めた(神社明細帳)。また「三代実録」貞観元年八月三日条に「遣従五位下行後権介藤原朝臣山陰、外従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人等、於大和国吉野郡高山、令祭礼、董仲舒祭法云、螟害五穀之時、於害食之州県内清浄処、解之攘之、故用此法」とみえ、同五年二月一日条にも「大和国吉野郡高山」において虫害を払う祭事を修せしめたとの記事があり、当社にかかわるものとされる。

金峯神社
きんぷじんじや

[現在地名]岩美町牧谷

牧谷まきだに集落南東の金峯山の山頂付近に鎮座。祭神は天水分神・国水分神・勾大兄神で、旧郷社。創建年代は未詳だが、社伝によれば大和国吉野よしの金峯山きんぶせん(現奈良県吉野町)から蔵王権現勧請したと伝える。江戸時代には蔵王ざおう権現と称したが(因幡志)、古くは牧谷権現とも称し、文治四年(一一八八)源頼朝が社領三〇〇石を寄進したと伝え、文和二年(一三五三)には山名氏清も社領を寄進したという。また中世には三二院を数えたが、天正八―九年(一五八〇―八一)羽柴秀吉の因幡侵攻の際に兵火を受け焼失したという(県神社誌)

金峯神社
みたけじんじや

[現在地名]福栄村大字福井下 桜

福井下ふくいしも北西権現ごんげん(四六四メートル)の東麓にある。少彦名命・安閑天皇・大己貴命・事代主命を祀る。明治四年(一八七一)蔵王権現社から現社号に改称

創建について、当社旧蔵の祠官金田兵部重長の享保四年(一七一九)と同金田隼人の寛保元年(一七四一)の記録によると、往古、紀州熊野くまのより勧請したという。「注進案」では、文保元年(一三一七)大和国吉野よしの金峯山より勧請といい、唐人とうじん(四七四メートル)の峰に社があったとする。

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改訂新版 世界大百科事典 「金峯神社」の意味・わかりやすい解説

金峯神社 (きんぷじんじゃ)

奈良県吉野郡吉野町金峰山に鎮座。旧郷社。金山毘古命をまつる。かつて祭神は金山彦命,大山祇神,大己貴命,少彦名命,安閑天皇とされたが,鎌倉時代は金精(こんせい)大明神とも金山明神ともいわれ,黄金保護の神と考えられた。853年(仁寿3)名神となり,854年(斉衡1)月次・相嘗・神今食祭に奉幣にあずかる神とされた。859年(貞観1)正三位を授けられ,同年藤原山蔭,滋岳川人等が宣旨を受けて虫害を払う祭りを修めている。《延喜式》神名帳では名神大社に列し,1337年(延元2・建武4)正二位を授けられた。金峰山(きんぷせん)は諸国の修験の名山に蔵王権現をもたらした本山的存在で,同名の神社は各地にある。例祭10月15日。
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デジタル大辞泉プラス 「金峯神社」の解説

金峯神社

山形県鶴岡市にある神社。庄内平野の南端、金峯山に位置する。山頂にある本殿は1608年建築で、国の重要文化財に指定されている。

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