金峯山(読み)きんぼうさん

日本歴史地名大系 「金峯山」の解説

金峯山
きんぼうさん

鶴岡市の南部、西田川郡温海あつみ町と東田川郡朝日あさひ村の境界を南北に連なる摩耶まや山地の北端に位置する。標高四五八・五メートル。きんぽうさんともよばれる。鶴岡市街から真近に望まれるこの山は市民歌にもよみ込まれ、市民の憩の山として親しまれてきた。現在は山頂に金峯神社が鎮座、東麓に真言宗豊山派青竜しようりゆう寺があり、明治初年の神仏分離の前は羽黒山と並ぶ修験道の山であった。古くは八葉はちよう山とか蓮華れんげ峰とよばれていたが、承暦年中(一〇七七―八一)に大和国宇多うだ郡から当地に移った丹波守盛宗が紀州吉野金峯山きんぶせん蔵王権現を勧請してからこの山名に改められたと伝える(「金峯万年草」金峯神社文書)。寛永一四年(一六三七)御朱印願立控(「金峯山雑記」光丘文庫蔵)によれば、天智天皇一〇年(六七一)役小角の開基で中興は慈覚大師。縁記(金峯万年草)には安倍頼時四男良宗が青竜寺別当になり、藤原秀衡が再興と記す。また山麓のさる沼・なが沼と余目あまるめ(現東田川郡余目町)あか沼にすんでいた竜に人身御供に差出された各地の地頭の娘たちが慈覚大師の法力で助けられ、この奇瑞を喜んだ領主が寺を創建したという(同書)深川ふかがわ(現余目町)の赤沼にも類似の伝説があり、その竜が当山に来て蔵王権現になったとされる。

正和二年(一三一三)二月奉納の金峯神社蔵銅鉢(国指定重要文化財)の銘に「蔵王権現」、正平六年(一三五一)奉納の青竜寺六所ろくしよ神社蔵獅子頭に「宮内(カ)光広(中略)六所御ママ子」、享徳二年(一四五三)八月一二日施入の懸仏(青竜寺蔵)に「金峯大権現」、天文一〇年(一五四一)の青竜寺仏像台座銘に「青竜寺峰」、慶長三年(一五九八)の納札(金峯神社蔵)に「金峯山青竜寺」と記す。

金峯山
きんぶさん

山上さんじようヶ岳(一七一九・二メートル)の南五キロ余の小篠おざさ(天川村)から尾根沿いに吉野川河岸まで、約二十数キロに及ぶ一連の峰続きを金峯山という。山麓の六田むだ(吉野町)から山頂付近までの間に子守こもり山・高城たかぎ山・宝塔ほうとうヶ峯・青根あおねヶ峯(八五七・九メートル)四寸岩しすんいわ(一二三五・六メートル)百丁ひやくちよう大天井おおてんじようヶ岳(一四三八・七メートル)小天井こてんじようヶ岳・蛇原じやばら鳴川なるかわ山・洞辻どろつじ大鞍掛おおくらかけ鐘掛かねかけ湧出ゆうしゆつ岳などがある。これら一連の山は古来金御岳かねのみたけ御岳おんたけ国軸こくじく山・耳我嶺みみがのみね高山たかやま金嶺かねのみたけなどとよばれたが、要するに同山異名である。「万葉集」巻一三に「み吉野の御金みかねたけに間無くぞ雨は降るとふ」「み雪ふる吉野の嶽に」と詠まれ、「令義解」僧尼令に「謂仮山居在金嶺者、判下吉野郡之類也」、「日本霊異記」上巻第二八には役の優婆塞が「大倭の国の金の峯と葛木の峯とにはしわたし」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報