金山峠(読み)かねやまとうげ

日本歴史地名大系 「金山峠」の解説

金山峠
かねやまとうげ

湯原ゆのはらから北西干蒲ひかばを経て西方山形県村山むらやま地方(上山市・山形市など)に通じる峠。標高六三三メートル。二井宿にいじゆく峠に次いで低い奥羽連絡の山越道で、七ヶ宿街道の西の関門として古くから重視されてきた。「湯原村安永風土記」「封内風土記」湯原村の項などによれば、猿鼻さるはな峠ともよばれていた。

正保二年(一六四五)村山郡楢下ならげ(現上山市)は、この峠に新道をつくったが「悪所ニ而馬足行違成兼候」というので、さらに明暦二年(一六五六)「小みね一廻り東之方」に新道を付替えた(元禄一一年「川西村村差出帳」上山市史編集資料)

金山峠
かねやまとうげ

出羽・陸奥国境にある羽州街道の峠で、標高六三三メートル、古くは猿鼻さるはな峠ともよばれた(「湯原村安永風土記」宮城県立図書館蔵)楢下ならげ宿より金山川の谷を上り赤山あかやま・金山集落を経て峠を越す。峠のすぐ南に干蒲ひかば宿(現宮城県刈田郡七ヶ宿町)がある。峠の頂上には旅人の安全を願って秋田藩主佐竹氏寄進の不動堂や、三山詣行者たちの宿泊所もあった。正保二年(一六四五)楢下村はこの峠に新道としてからめき道をつくったが、「悪所ニ而、馬足行違成兼候」で、さらに明暦二年(一六五六)土岐氏の時代に「小みね一廻り東之方」に新道を付替えた(元禄一一年「楢下村明細帳」三浦文庫)。以来本格的な参勤交代路となり、「金山峠は江戸への往還なれば、為に奥州の通行も大いに便益あり」(上山年代略記)と、江戸への往来や湯殿山参詣の行者の通行で賑うようになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報