野辺村(読み)のべむら

日本歴史地名大系 「野辺村」の解説

野辺村
のべむら

[現在地名]須坂市野辺町・村石むらいし町・望岳台ぼうがくだい

現須坂市南部。北は百々どど川で小山こやま村、東は道路で亀倉かめくら村、西は畦畔で米持よなもち村とあい川境の幸高こうたか村・井上いのうえ村、南は畦畔で八町はつちよう村と境す。米子よなこ川扇状地の野辺原の大半を占める。扇央に野辺集落、東部に村石新田がある。用水は亀倉村境米子川より引水。水田は百々川沿いにある。集落西北隅から対岸臥竜がりゆう(小山村)西へいち街道・東端から臥竜山の東へ野辺街道をもって小山・須坂へ通じる。南部には西方井上・村石新田への道が村石新田で須坂大笹おおざさ道に合す。

野辺村
のべむら

[現在地名]あきる野市野辺

東は小川おがわ村と二宮にのみや村、西は雨間あめま村に接する。北は秋留あきる台地の段丘崖、南に秋川が東流する。野辺は中世横山党の一族野辺氏の居住した地。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)の宛所に秋川流域の村々の一つとして野辺があげられている。この回状は讃岐用人が各村当番衆に讃岐役所への集合を命じたものとされるが、文言は近世的で検討を要する。野辺氏は畠山氏に仕えて、紀伊国に移住しており、室町期には紀伊国南部みなべ(現和歌山県南部町など)に入部し、居館を構えた。

野辺村
やべむら

[現在地名]杵築市守江もりえ

守江湾の北東にあたり、南に海岸をもち台地上に点在するが、北は傾斜地である。西方に八坂やさか川・高山たかやま川により運ばれた土砂海流によって堆積して生じた一の洲いちのすがあり、海中に一キロほど突出し、豊後天の橋立と称されている。慶長元年(一五九六)の大津波でその大部分を流失したが、藩命による捨石などでようやく復元した。小倉藩元和人畜改帳では高一三二石余、家数二二・人数三八(うち百姓六・名子三)、牛七とある。正保郷帳では安岐あき郷に属し、田方三三石余・畑方五九石余。万治元年(一六五八)藩命によって尾払おばらい池が築造されると、田地が開発された(杵築市誌)元禄郷帳でも高九二石余。

野辺村
のべむら

[現在地名]館林市野辺町

東は上三林かみみばやし村、西は鍋谷なべや村・赤岩あかいわ(現邑楽郡千代田町)、南は萱野かやの村・木崎きざき(現同上)、北は赤堀あかぼり(現同郡邑楽町)。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)には「館林領之内」として「野辺」がみえる。享保一六年(一七三一)成立の「野辺鑑」(館林市立図書館蔵)によると、古来萱野のうちの荒廃地であったが、寛永年中(一六二四―四四)萱野村の松沢織部が新田開発を館林藩に願い出、農民を招いて開発、同一六年三月には藩主の一族榊原若狭守重直より諸役永代免除などからなる野辺新田之定という一札を与えられたと記される。

野辺村
のんべむら

[現在地名]鈴鹿市野辺町・野辺一―二丁目・西条にしじよう二丁目

竹野たけの村の東、神戸かんべ城下の西にある水田地帯の集落。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「野日御厨(中略)供祭物 御贄米一石五斗」、また「神鳳鈔」に「内宮二十丁野日御厨」とあり、当村に比定されている。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「高六百拾六石 野辺村」として現れる。江戸時代を通じて亀山藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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