野崎啓造(読み)のざき・けいぞう

朝日日本歴史人物事典 「野崎啓造」の解説

野崎啓造

没年:明治43.11.17(1910)
生年嘉永5.2(1852)
明治期の司法官広島藩士野崎貞夫の子。明治8(1875)年司法省15等出仕。14年3月検事に任官し,22年には仏独両国を視察。23年8月に横浜地裁検事正,翌年8月東京地裁検事正,26年3月大審院検事,27年1月広島控訴院検事長となり,この間,李鴻章謀殺未遂事件や閔妃殺害事件の裁判を指揮した。31年6月東京控訴院検事長,同年11月には法相と衝突して失脚した横田国臣検事総長に代わって検事総長に就任したが,37年4月再び横田にその職を譲り,翌年12月貴族院議員に勅選された。

(楠精一郎)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野崎啓造」の解説

野崎啓造 のざき-けいぞう

1852-1910 明治時代の司法官。
嘉永(かえい)5年2月生まれ。明治8年司法省にはいり,横浜,東京,大阪の地方裁判所検事正,広島,東京の控訴院検事長などをつとめ,31年検事総長となる。この間閔妃(ミンビ)暗殺事件の裁判を指揮した。38年貴族院議員。明治43年11月17日死去。59歳。安芸(あき)(広島県)出身

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