野尻宿(読み)のじりじゆく

日本歴史地名大系 「野尻宿」の解説

野尻宿
のじりじゆく

[現在地名]信濃町大字野尻

慶長一六年(一六一一)九月三日、松平忠輝北国脇往還諸宿に出した伝馬条目(「伝馬宿書出」大古間共有)によって成立をみ、同一〇日には伝馬役などの代償として屋敷分(高一六石五斗)年貢(三石六斗三升)を免除された。北の関川せきがわ宿から一里、関川を渡ると急坂(野尻坂)があり、南の柏原かしわばら宿へ一里、中間に一里塚がある。

貞享四年(一六八七)四月の宿絵図(上水内郡誌)及び宝永元年(一七〇四)一一月の宿絵図(中村元典氏蔵)によれば、宿場は北と南の端に土手があり、その内側に伝馬屋敷が並び、中間を池尻いけじり川が横切り、橋が架かり、それより以南は街道の中央と両側の屋敷裏とに堰が流れ、町用水、人馬のすすぎに使用された。

野尻宿
のじりしゆく

[現在地名]秋保町馬場 野尻

二口ふたくち越出羽道のうち最も国境近くにある宿駅で、東流する名取川左岸にある。東の馬場ばば宿までは一里三五町、西の出羽国高野こうや宿(現山形市)までは四里一一町。天正一四年(一五八六)一月一日最上義光が立石りつしやく(現山形市)に常灯油田を寄進した際の浦山光種副状(立石寺文書)に、岡門田に田三〇〇束刈を与えられた野尻九郎兵衛の名がみえる。九郎兵衛は出羽国平石水ひらしみず(現山形市)だいみね館主で、のち二口峠に移ったと伝わる二口にくち九郎兵衛と同一人物と推定される。同一六年には最上勢が峠を越えて秋保郷内に侵攻。伊達方に属して最上勢を撃退した秋保直盛は、奪回した「野窕之地」を自領とした(同年五月一一日「伊達政宗書状」秋保基盛家文書)。同地は野尻をさすとされる。この頃山路長門が伊達政宗の代官として上流本小屋もとごや近くのへぐりに配された(「伊達天正日記」同年五月一一日条など)

野尻宿
のじりしゆく

[現在地名]昭和村野尻

村の中央を南北に流れる野尻川とほぼ十文字に交わって東からいりの沢、西から坂下さかした沢が流入し、この横谷に沿って銀山ぎんざん街道が通る。この街道と田島たじま街道の交差する要衝の地に立地し、御蔵入領内では有数の駅所であった。元禄七年(一六九四)の野尻村指出(福島県史)に「当村中津川村、間方村、布沢村、玉梨村より馬次ぎに御座候」とあり、「会津鑑」の駅間里程駄賃銭調にも、田島街道の駅所として小野川おのがわ村・喰丸くいまる村・中津川なかつかわ村・野尻村の名がみられる。このうち制札場の置かれたのは小野川村と野尻村の二ヵ所である(新編会津風土記)。文化元年(一八〇四)の野尻村絵図(菊地家蔵)によると、街道中央に渠を流し「町五間、片町弐間半つつ」の記入があって、西側一六軒、東側一五軒、さらに銀山街道に沿って一〇軒が短冊形の屋敷地を配付されて街村を形成し、駅所業務はこの四一軒で遂行したと思われる。

野尻宿
のじりしゆく

[現在地名]大桑村大字野尻

野尻宿は須原すはら宿の次の宿で次宿の三留野みどのとそれに続く妻籠つまご馬籠まごめとともに「下四宿」のうちであった。

野尻宿が記録の上に現れてくるのは、文禄二年(一五九三)木曾路を通った常陸佐竹家の臣大和田近江守重清の日記で、「又野尻ニテ馬次、同金壱匁うる、より銭八百文請取、同昼食スル、野尻より小黒ニ乗、生雲(生雲軒某)ノクツ壱足借用ス、須原ニテ馬次」(大和田重清日記)とあるのが初見である。

慶長六年中山道の宿駅として指定されるとともに、問屋・本陣・脇本陣などが設けられている。元禄五年(一六九二)の「高木伊勢守様御通ニ付福島ヘ宿々ヨリ書上写」(亀子文書)によると野尻宿は「定納米八十五石一斗二升四合、伝馬本役三十人、歩行本役三十人(内五人半ハ歩行役斗勤。此家数〆四十軒両問屋共ニ)、水役三十一軒、町長三丁二十九間」とあり、天保一四年(一八四三)の中山道宿村大概帳には「宿内町並東西六町三尺、宿内人別九百八十六人、宿内惣家数百八軒」とあり、一五〇年の間に町長だけでも二倍になっており、宿の繁栄ぶりがうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報