采女氏塋域碑(読み)うねめしのえいいきひ

改訂新版 世界大百科事典 「采女氏塋域碑」の意味・わかりやすい解説

采女氏塋域碑 (うねめしのえいいきひ)

689年(持統3),采女竹良(うねめのちくら)の墓所を明示するために作られた石碑。もと河内国春日村(現,大阪府南河内郡太子町)の帷子(かたびら)山から出土し,付近の妙見寺に置かれていたと伝えるが,現在その所在を逸している。江戸時代の拓本によると,石は高さ38cm,幅21cmほどの大きさで,その一面に6行にわたって文が陰刻されていた。文面には〈飛鳥浄御原大朝庭〉(天武朝)の大弁官で直大弐の位を有した采女竹良卿の墓所として,形浦山の地4000代(しろ)を請いうけたので,他人がこれを破壊したりけがしてはならない旨が述べられており,末尾に己丑年(689)12月25日の日付が加えられている。采女竹良は,《日本書紀》に采女竹羅,筑羅としてみえる人物で,遣新羅使として新羅に赴いたこともある。684年(天武13)に朝臣(あそん)の姓を賜っている。この碑は,当時の墓制や葬地の問題を考察する上に重要な史料となっている。
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