酒井村(読み)さかいむら

日本歴史地名大系 「酒井村」の解説

酒井村
さかいむら

[現在地名]伊丹市口酒井くちさかい

森本もりもと村の南に位置し、村域は猪名いな川と分流した川とに挟まれた砂洲と、猪名川左岸の氾濫原の二つに分断されている。古代の川辺かわべ坂合さかい(和名抄)の遺称地。川辺南条の条里が敷かれ、ろくつぼななつぼはちつぼじゆうつぼなどの小字名があった。嘉元二年(一三〇四)一二月一七日付の裏書を有する寄進米上日記(勝尾寺文書)に「酒井村分」とあって、浄土寺門跡から勝尾かつお(現大阪府箕面市)に寄進され、年貢一石一斗三升一合を納めていた。

古くは猪名川と藻川との間の砂洲にあり、天正八年(一五八〇)猪名川左岸に移転したという(明和七年「春日神社勧請覚」口酒井部落有文書)。慶長国絵図に上坂井村とみえ、高二三五石。元禄一一年(一六九八)に小百姓らが庄屋の不正を指摘して争論になり、幕府が直接検地を行った(同年「検地帳」口酒井部落有文書)

酒井村
さかいむら

[現在地名]鳥栖市酒井東町さかいひがしまち酒井西町さかいにしまち

大木だいぎ川・秋光あきみつ川流域の平地に立地し、東限は筑後国に接する。集落は大木川によって東西に分れる。曾根崎そねざき村の南に位置し、久留米くるめ道に沿う。元禄絵図に「曾根崎ヨリ酒井迄拾四町五拾六間」とある。

文治三年(一一八七)五月九日の源頼朝下文案(曾根崎元一文書)に「肥前国基肄郡内、曾根崎堺別符行武名」とあり、堺別符さかいべふ行武ゆきたけ名は地頭曾禰崎氏の所領であった。建久八年(一一九七)の肥前国図田帳断簡(曾禰崎文書)中に「行武七十丁」とみえ、竜造寺田数帳(竜造寺家文書)にも基肄南郷に「行武七十丁」とみえる。なお文禄四年(一五九五)検地帳(基養精細録)によると酒井村は一二四丁余である。

酒井村
さかいむら

[現在地名]羽咋市酒井町

本江ほんごう村の北に位置し、西部は邑知おうち潟東縁の低平地、東部は碁石ごいしヶ峰西麓丘陵に立地。内浦街道に沿う街村。田鶴浜たつるはま往来が当地で分岐する。当村と四柳よつやなぎ大町おおまち下曾禰しもそね金丸出かねまるで鹿島路かしまじ潟崎かたさきの六ヵ村は鹿島郡に属した。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「酒井保」とみえ、同年の立券で田は一町五段であった。同保の地頭職は得田氏の一族と推定される酒井氏が相伝、文永六年(一二六九)九月一〇日に酒井章長(西願)が嫡孫利忠に譲渡(「沙弥西願譲状案」永光寺文書)、正安二年(一三〇〇)一二月二二日幕府から安堵されている(「関東下知状」同文書)。嘉元二年(一三〇三)九月六日、利忠は弟章兼に酒井保内の私領屋敷一所と名田一町を譲っている(「酒井利忠譲状」同文書)

酒井村
さかいむら

[現在地名]いわき市勿来町

蛭田ひるた川中流にあり、北は白米しろよね村、北西は瀬戸せと村、南は常陸国多賀たが関本上せきもとかみ(現茨城県北茨城市)菊多きくた郡に属する。近世の領主の変遷は磐城平藩領から元和八年(一六二二)窪田藩領。延宝七年(一六七九)藩主土方雄隆の弟雄賀は当村のうちなどで二千石を分与され、旗本となる。旗本土方領は以後幕末まで変わらない。村のうち窪田藩領分は貞享元年(一六八四)幕府領、寛保二年(一七四二)以降棚倉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では「さかいの村」とあり、高六九四石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高八九三石余。正保郷帳では田方六七〇石余・畑方二二二石余。

酒井村
さかいむら

[現在地名]厚木市酒井

相模川右岸に位置し、南は戸田とだ村、北は下岡田しもおかた村に接する。大住おおすみ郡に属する。矢倉沢やぐらさわ往還が村の北部を北から西へ、また八王子道が東側を南北に通る。小田原衆所領役帳に、内藤左近将監「弐百拾七貫八百五拾文 中郡酒井郷 此内百七拾四貫五百五拾文 癸卯検地増分」とある。また正保国絵図に「酒井」とある。

近世は、元禄期(一六八八―一七〇四)まで幕府・旗本領の四給。以後七給となる。寛文四年(一六六四)三月戸田村・酒井村水論につき幕府裁許状(県史六)によると、小鮎こあゆ川から取水する田村たむら用水の水を、当村で引水利用できなくなった。このため湧水と愛甲あいこう村・船子ふなこ村からの落水を利用して灌漑した。嘉永七年(一八五四)四月平塚宿加助郷勤高控(厚木市史史料集一〇)によると、平塚宿までの道法三里、村高七五四石九斗六升四勺五才のうち三八一石が加助郷勤高であった。

酒井村
さかいむら

[現在地名]姫路市豊富町豊富とよとみちようとよとみ

金竹かなたけ村の北西、いち川中流左岸の台地上に位置し、集落は台地南端付近にある。江戸時代前期は重国しげくに村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ重国村」と注記され、高二三二石余。天保郷帳では高二八六石余。用水は江鮒えぶな村のかぶと池と太尾ふとお村のしん池に依存。鎮守は重国村の大年おおとし神社。また江鮒村の甲八幡神社の氏子でもある。

酒井村
さかいむら

[現在地名]浪江町酒井

高瀬たかせ川南岸にあり、東は丈六じようろく山で高瀬村、南は低丘陵で渋川しぶかわ(現双葉町)。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「拾九貫三百七十五文 酒井善十郎」がみえる。正保郷帳では田方四三二石余・畑方二三三石余。元禄郷帳では酒井村は高四〇三石余、谷津田やつだ村は高六七四石余、井土川いどがわ新田は高三〇四石余。寛永一六年(一六三九)の高一千八石余、明暦年間(一六五五―五八)谷津田村を分村し、高六一〇石余となる(奥相志)。天保郷帳では「古者 酒井村・谷津田村・井土川新田三ケ村」とみえる。

酒井村
さかいむら

[現在地名]可児市久々利くくり

久々利村本郷の北、北西流する久々利川北岸の平坦地と山麓を占め、西は羽崎はざき村。久々利七郷の一。慶長郷帳などには久々利村として一括記載され、尾張藩領。寛永年間(一六二四―四四)の御両家并九人衆高概免覚書(西山文書)に村名がみえ、高六〇石、千村重次の給地。「士林泝(蓬左文庫蔵)などによれば重次の子孫重・政恒両代に各二〇〇石ずつ減俸された際上知され尾張藩蔵入地となる。

酒井村
さかいむら

[現在地名]三田市酒井

上槻瀬かみつきせ村・しも村・片古かたこ村の北に位置し、大部分は山麓丘陵地で、羽束はつか川沿いに平坦地が開ける。慶長国絵図に堺井村とみえ、田中たなか村と合せて高四七二石余。正保郷帳では酒井村の高二六六石余。御領地雑事記(森本家文書)によれば家数五五・人数二八四、寺一、宝永八年(一七一一)地内西端の畦倉あぜくら池を利用して畦倉新田五石余を、享保元年(一七一六)酒井新田一石余を開墾していた。

酒井村
さかいむら

[現在地名]三郷市さかえ

三九さんく村の北に位置し、北は谷口やぐち村・花和田はなわだ村、北西は境木さかいぎ村。葛西かさい用水(本田用水)が村の中ほどを南流する。「風土記稿」によると、もとは花和田村の内に含まれていたが、元禄年中改定図には谷口・境木両村の内にあり、宝暦期(一七五一―六四)に分村したという。検地は元禄八年(一六九五)に武蔵国幕府領総検地の一環として実施された(「風土記稿」など)

酒井村
さかいむら

[現在地名]吉良町酒井

町域のほぼ中央に位置し、集落の東を矢崎やさき川が流れる。北は中野なかの村、東は友国ともくに村、南は饗庭あいば村、西は冨田とみだ村に接する。延享元年(一七四四)の村高三八八石余、田の免五ツ八分、畑方の麦作・木綿作引二二石余がある(吉良町有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報