都治郷(読み)つちごう

日本歴史地名大系 「都治郷」の解説

都治郷
つちごう

江川支流都治川の中流の都治盆地を中心とする地域。現江津市都治町が中心。古代山陰道は東隣の波積はづみ郷から都治郷に至り、都治川に沿って下り江川右岸に出て、河上かわのぼり郷で江川を渡って都野つの郷へと延びていた。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる樟道くすち駅は現都治町の中都治なかつちに設けられていたと推測されている。古代は邇摩にま郡のうちであったが、中世那賀郡に属し、貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に那賀郡の国衙領の一つとして「つちの郷 廿四町三反大」とみえる。現都治町の森家に伝わる都治・河上両家根本之事なる由緒書には、足利尊氏が信濃国の佐々木祐真と行連の兄弟に川上(河上)七〇〇貫と都治・波積七〇〇貫をそれぞれ恩賞として与え、祐真と行連は観応二年(一三五一)川上郷・都治郷に入部して川上氏・都治氏の祖となったと記されている。しかしこれを信頼できる史料に徴して明らかにすることはできない。永享一二年(一四四〇)九月一〇日の石見国諸郡段銭之事(益田家文書)に「都治 公田九丁六十歩内」とある。在地名を名乗る領主としては、天文三年(一五三四)と推定される三月二一日の大内義隆書状(笠井家文書)にみえる「都治孫鶴丸」が初見である。大内義隆が将軍の上意を受けて開陣するまで都治孫鶴丸が軍忠したことを賞する内容で、まったく同じ文言の書状は同日に小笠原兵部大輔宛にも発給されている。都治氏は小笠原氏とともにこれ以前から守護大内氏の被官化していたのであろう。大内氏との関係は同二一年と推定される六月一三日の大内晴英書状(花田家文書)が最後のものとなる。

都治郷
つちごう

和名抄」所載の郷。高山寺本は都治、東急本・元和古活字本は群治と記すが、ともに訓を欠く。名博本には記載がない。これに対し、湯泉郷と大家おおえ郷の間に、高山寺本・名博本は津道(前者は「都知」、後者は「ツチ」と訓を付す)、東急本・元和古活字本は杵道(前者は「都如」、後者は「都知」と訓を付す)の郷名を記載しているが、これは都治郷との重複とされる。したがって当郷の訓はツチであろう。天平宝字六年(七六二)と推定される造東大寺司解案(正倉院文書)に「土師嶋足石見国尓麻郡都智郷戸主土師当麻戸口」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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