遷喬館(読み)せんきようかん

日本歴史地名大系 「遷喬館」の解説

遷喬館
せんきようかん

[現在地名]岩槻市本町四丁目

岩槻藩藩儒児玉南柯が寛政一一年(一七九九)に開いた私塾で、のち藩校勤学きんがく所となった。建物は現存し県の史跡に指定されている。

岩槻藩主大岡氏の初代忠光は山県大弐を藩儒として抱えていたが、忠光の死去に伴い致仕した大弐は江戸で私塾を開き、尊王の大義を説き幕政を批判した「柳子新論」を著すなどしたため幕吏に捕らえられ、明和四年(一七六七)死罪となった。岩槻藩ではこの影響を受けて朱子学への転換を図ることになり、二代藩主忠喜は宝暦八年(一七五八)二人を江戸昌平黌しようへいこうに留学させている。このうちの一人がのちの児玉南柯である。南柯は天明八年(一七八八)に隠退し、寛政一一年に武家屋敷地内の天神裏てんじんうら小路に家塾遷喬館を開いた。遷喬館という名は経典中から選ばれた。文化二年(一八〇五)から同八年の間に岩槻藩校となり、名称も勤学きんがく所となり、同八年には隣接地に武芸稽古所も設立された(「児玉南柯日記」岩槻市教育委員会蔵など)

創立当初の教育目標は南柯自身が寛政一一年三月に作成した会約(高田家文書)により知れる。会約は第一条塾の名義と目的、第二条講読の課程、第三条礼儀と態度、第四条終業時の規定、第五条余間の利用からなり、謹厳実直、恬淡温容な南柯の性格を反映しているという。通常会約は遷喬館の玄関に掲げられており、新春の講義初めには南柯が子弟に読み聞かせ、勉学の心得とした。家塾時代の運営は、南柯の私費、門人子弟からの謝礼、藩主からの拝領金子が充てられている。館に学ぶ者は藩士の子弟とともに近郷近在の豪農や有力町人の子弟もいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の遷喬館の言及

【岩槻藩】より

…家禄を有する者は57人にすぎず,高も250石から40石という小禄であった。5代忠正のとき,家臣児玉南柯の家塾遷喬館経営を助け,後に藩校とした。6代忠固の1843年(天保14)将軍家慶の日光社参の宿館となり城内に大修理を加え,45年(弘化2)江戸城本丸普請の功により3000石加増した。…

※「遷喬館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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