遠藤村(読み)えんどうむら

日本歴史地名大系 「遠藤村」の解説

遠藤村
えんどうむら

[現在地名]岸本町遠藤

吉長よしなが村の北、日野川下流右岸の平坦な沖積地に位置する。東は石州府せきしよふ(現米子市)南西は日野川を隔てて殿河内とのがわうち村。出雲国と美作国・播磨国方面とを米子四十曲しじゆうまがり峠越経由で結ぶ出雲街道が縦断し、東を野本のもと川、西を蚊屋かや井手が流れる。地名往古大山から遠藤某なる者が当地に来て開拓に尽したことにちなみ、枝村の万太夫まんだい(万代)は同所で戦死した者の名に由来するという(伯耆志)

遠藤村
えんどうむら

[現在地名]藤沢市遠藤

小出こいで川上流の台地に位置する。東は石川いしかわ村、西は打戻うちもどり村と芹沢せりざわ(現茅ヶ崎市)に接する。宝泉寺過去帳扉書(藤沢市史一)によると、藤元寺古本尊釈迦如来像には天文三年(一五三四)一一月一四日の銘とともに「相模州大庭庄打撤郷遠藤村藤元寺」とある。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)が「遠藤郷法泉寺」に出されている。翌年五月三日の駒井勝正への知行宛行状(県史八)には一八一石四斗「円藤之郷」とみえる。

明和四年(一七六七)旗本堀・杉浦・本多領の三給支配となる。本多領・杉浦領の検地は延宝七年(一六七九)に実施された。

遠藤村
えんどうむら

[現在地名]中井町遠藤

藤沢ふじさわ川が東北を流れ、村央を流れる中村なかむら川と南で合し、東は淘綾ゆるぎ一色いつしき(現中郡二宮町)、西は田中たなか村、南は足柄下郡小竹おだけ(現小田原市)、北は北田きただ村・久所ぐぞ村と接し、大山道が南北に通る。御所ごしよみや六名の一つ。正保国絵図に村名が載る。近世は初め小田原藩領、天和三年(一六八三)稲葉正倚に分知、享保一五年(一七三〇)幕府直轄領、文化八年(一八一一)以後旗本小笠原領。

遠藤村
えんどうむら

[現在地名]潟東村遠藤

よろい潟の北にあり、卯八郎受うはちろううけ南方に連なる。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に「遠藤嶋村」とあり高二七石五斗余。同九年まで三条藩、のち幕府領。元和四年の長岡藩知行目録の貼紙に「寛永七年ニ御蔵入地とかへ地ニ罷成うけ取申候」として熊谷くまがい村・五之上ごのかみ村とともに村名がみえ、高三八石五斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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