達曾部村(読み)たつそべむら

日本歴史地名大系 「達曾部村」の解説

達曾部村
たつそべむら

[現在地名]宮守村達曾部

さるいし川の支流達曾部川の流域に位置し、東から南は上宮守村、南は下宮守村。遠野街道が上宮守村から和賀郡落合おちあい(現東和町)に向かう。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが、うち下六郷の一郷として達曾部があったという(阿曾沼興廃記)。応永一九年(一四一二)南部守行が大槌おおつち気仙けせんに進攻するため和賀郡から遠野へ出陣した際、達曾部駅で大槌の兵に襲撃されたと伝える(祐清私記)

慶長一七年(一六一二)南部利直伝馬黒印状(鬼柳文書)地名がみえる。寛永四年(一六二七)達曾部村の高五〇二石は下宮守村の一部とともに盛岡藩代官宮森主水の管轄下に入り(「南部利直代官申付状」遠野宮森文書)、当地にも御蔵が置かれていた(「雑書」正保三年六月六日条)。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高九六七石余とあり、七ヵ年平均の免は二ツ五分六厘二毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方四六二石余・畑方五〇六石余。「邦内郷村志」では蔵分六〇三石余・給分三五四石余、家数二四八、馬四三五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報