辺田村(読み)へたむら

日本歴史地名大系 「辺田村」の解説

辺田村
へたむら

[現在地名]志摩町小富士こふじ

可也かや山南東麓、東西に延びる海岸線に沿う。西は御床みとこ村、東は師吉もろよし村。辺田浦がある。入海を挟んだ対岸の怡土いと加布里かふり(現前原市)へは船で渡った(続風土記)。天正(一五七三―九二)初年に比定される原田可真・青木鑑学連署書状(大悲王院文書)によると、「勝幢御寄進地部田三町土貢」が近年不納となっているというらい山衆徒の訴えを受けた大友氏は、小金丸方に問いただし納入の確約を得たことを雷山に伝えた。勝幢は大友親世の法号である。天正一九年三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)戸田村とみえ、田一一町八反余・畠一〇町三反余。小早川時代の指出前之帳によると田八町六反余(分米一三八石余)・畠九町二反余(分大豆四〇石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高一七九石余、物成一〇一石余(うち大豆二五石余)。同七年の検地高三六六石余、うち大豆九七石余(慶長石高帳)元禄元年(一六八八)の村位は下、田二三町一反余・畠二〇町一反余で、高三六八石余(「志摩郡御床触郡帳」鎌田家文書)。うち田二町七反余・畠三町二反、高五一石余が辺田浦分であった(享保二年「志摩郡村々田畠畝高帳」同文書)。田圃志による元禄五年の高、石高書上帳案の郡帳高も三六八石余。元禄一〇年以降前面に広がる干潟の干拓が進み、「地理全誌」では耕地面積九七町歩余となっている。

辺田村
へたむら

[現在地名]岩井市辺田

岩井村の南に所在。東は菅生すがお沼、北・南はその枝ヤト。西方に台地が延びる。村内を岩井―水海道みつかいどう街道、岩井―野田のだ街道が貫通。平将門の終焉地北山きたやまを当村とする説もある(→岩井村。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)に「へたむら 印東出羽介」とある。近世には下総関宿藩領。当初は岩井村に属し、馬洗うまあらいと称したが元和元年(一六一五)分村して辺田村となる(岩井郷土誌)。同四年の皆済目録(中山家文書)によれば村高二九五石のうち四〇石は荒地引。年貢は金納二三両二分余と一二両一分余、物納は米四八石・大麦一〇石・小麦一石・紅花九七〇目・荏一石・胡麻三斗・大豆三石・稗一石・木綿八貫目などで、ほかに茶・麻・葉煙草をつくる。

辺田村
へたむら

[現在地名]根占町辺田

山本やまもと村の南に位置し、西は海に面する。文政七年(一八二四)の小根占名勝志(県立図書館蔵)では山本村が当村の冠称とされており、天保郷帳などでは山本村に含まれていたとみられる。中世は禰寝ねじめ南俣みなみまたのうちにあった。元亨三年(一三二三)一〇月二〇日の建部高清譲状(池端文書)によると、禰寝南俣山本村内の田地が高清の甥弥次郎に譲られており、この田地に煩いが生じた際には「当俣内類地辺田村内田地上田弐段」を替地とすることが決められている。

辺田村
へんだむら

[現在地名]中央区都町みやこちよう一―三丁目・都町、若葉わかば桜木町さくらぎちよう

矢作やはぎ村の北方にあり、南を都川が西流する。「千学集抜粋」に「仁戸名牛尾三郎左衛門ハ、神領辺田の百姓三郎五郎といへるものを、己か被官なれハと辺田へ押し込ミ打ちける」とみえ、妙見社(現千葉神社)領であった。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高七〇〇石余で、一二町の道普請を負担している。元和五年(一六一九)から四一七石が江戸南町・北町両奉行与力給知(「元禄年中地頭所取扱村々記」小倉家文書)、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高七一〇石余で佐倉藩領。

辺田村
へだむら

[現在地名]銚子市春日町かすがちよう春日台町かすがだいちよう

小川戸こかわど村の西、荒野こうや村の南に位置する。西を清水しみず川が流れる。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に辺田とみえ、太良右衛門尉・福泉坊・彦作が柑子木を各一本植えていた。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四〇六石余で旗本板倉・堀・兼松三氏の相給。「伊能忠敬測量日記」では家数七五。旧高旧領取調帳では板倉領は七斗余で、兼松領一〇三石余、ほか旗本服部領二二五石余・小川領九石余と上野安中藩領九四石余となっている。文治期(一一八五―九〇)の創建という春日神社、海上氏一族の辺田氏居城跡に接して妙見社がある。真言宗智山派観行かんぎよう院は延暦一五年(七九六)の開創と伝える。

辺田村
へたむら

[現在地名]七城町辺田

瀬戸口せとぐち村の南、うてな台地先端部近くに立地する。村の西端、水島みずしま村との境界を椎持しいもち往還が北上する。天正一七年(一五八九)検地帳によると、田三三町九反余・畠一三町六畝、分米四九一石五斗余。名請人六二、屋敷数一六。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田三三町九反七畝余・畠一一町一畝余、分米四八八石余。名請人は四三、屋敷数一六と記される。深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑に高四九六石一斗余、竈数二六・人数九三、駄馬二一、氏神八幡宮とある。肥後国中寺社御家人名附に造酒屋一軒(甚八)が記される。明治一六年(一八八三)調べの民業戸数は農業二四、大工職・石工職各一(郡村誌)

辺田村
へたむら

[現在地名]有明町大字辺田

杵島山中央部の東麓にあり、北は現白石町に接する。正保絵図に村名がみえる。

この村には一本松いつぽんまつ二本松にほんまつ三本松さんぼんまつ四本松しほんまつ五本松ごほんまつの字名がある。

この地は鎌倉時代には日向通益(のちの白石氏)が地頭であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報