跡田村(読み)あとだむら

日本歴史地名大系 「跡田村」の解説

跡田村
あとだむら

[現在地名]本耶馬渓町跡田

羅漢らかん寺の門前村。西は山を越えて多志田たしだ村、北は曾木そぎ村のあお。跡田の意味は羅漢寺の仏供料不足等に備える後田うしろだのことか。建武三年(一三三六)六月五日の玖珠くす(現玖珠町の伐株山)攻撃軍に跡田弥三郎がみえる(同年一一月日「野仲道棟軍忠状」野中文書)。天文一七年(一五四八)頃、跡田土佐守の子大膳の名がみえ(「某日記」到津文書)、「両豊記」には、長岩ながいわ(現耶馬渓町)城衆に主水・因幡守・主馬の名がみえ、天正七年(一五七九)末弘すえひろ(現中津市)落城後、主水を城番に置いたとある。跡田氏は野仲氏の支族であるという(下毛郡誌)。元和二年(一六一六)より同八年にかけて、玖珠郡への走百姓が一七人確認される(「走百姓調査」松井家文書)。小倉藩元和人畜改帳では跡田村は道家次右衛門給分三五〇石、家数五九(うち百姓二九・名子一一)・人数一七一、牛一三・馬七とあり、ほかに羅漢村がみえ、御蔵納分高一〇〇石余、家数三三(うち百姓九・名子八、牢人一・寺家四・鍛冶一・大工一)・人数八二、牛四・馬四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報