越ヶ谷宿(読み)こしがやしゆく

日本歴史地名大系 「越ヶ谷宿」の解説

越ヶ谷宿
こしがやしゆく

[現在地名]越谷市越ヶ谷本町・中町・越ヶ谷五丁目・大沢一―四丁目など

日光道中の宿で、前宿の草加から一里二八町、次宿の粕壁かすかべ(現春日部市)へ二里三〇町(宿村大概帳)。慶長年間(一五九六―一六一五)の奥州道(のちの日光道中)の整備に伴い成立。ほぼ同時期に荒川(元荒川)対岸にも当宿の加宿として大沢おおさわ町が取立てられた。のち両町のうち伝馬機構が合体され、交通上では両町併せて越ヶ谷宿と称された。奥州道ははじめ千住せんじゆ(現東京都足立区)から真っすぐに北上せず、淵江ふちえ(現同上)から利根川(現中川)と荒川(現元荒川)の自然堤防上を八条はちじよう(現八潮市)大相模おおさがみ瓦曾根かわらそねを経て越ヶ谷へという道筋であったが(越ヶ谷瓜の蔓)、慶長一七年越ヶ谷の大沢忠二郎(基雄)らが御鷹場道の整備と橋・堤の築造を命じられているので(慶長年録)、この頃越ヶ谷辺りの奥州道整備が進められたものとみられる。元和三年(一六一七)四月徳川秀忠の日光社参に随行した日野資勝は「資勝卿記」に、「センシユニテ馬ヲツキ、コシカヤニテ昼ノ休ヲ仕候」(同月一二日条)と記している。また帰路には「カスカヘ」で昼休みをとり、荷物はそこに留置き、「唯心さまコシカヤヘ御出ニ付て、拙子も罷立申候、路次雨降、大風ニテナンガン(難艱)ノ体也」(同月二三日条)道中の困難を訴え、「コシカヤノ宿」で一泊している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の越ヶ谷宿の言及

【越谷[市]】より

…日本文化伝承の館〈こしがや能楽堂〉もある。【新井 寿郎】
[越ヶ谷宿]
 武蔵国埼玉郡に属する日光道中の宿駅。江戸からおよそ5里。…

※「越ヶ谷宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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