赤浜村(読み)あかはまむら

日本歴史地名大系 「赤浜村」の解説

赤浜村
あかはまむら

[現在地名]寄居町赤浜

小園こぞの村の東に位置する。荒川右岸の二段よりなる河岸段丘上にあり、南部を吉野よしの川が東流する。中世の鎌倉街道上道が村内を通り、荒川左岸の榛沢はんざわ荒川あらかわ(現花園町)との境の河中には渡河目標になったという川越かわごし岩がある。この道は江戸期には江戸より川越を経て上州へ至る中山道の脇往還になっている。永正十五年道者日記(神宮文庫蔵)に「在所あかはまむさし田中七郎左衛門殿」とみえる。永禄四年(一五六一)七月二七日、岩付いわつき(現岩槻市)城主太田資正は「赤浜之原」で上田宗調方の山田伊賀を打伏せた道祖土図書助の戦功を賞している(「太田資正感状」道祖土文書)。寛文一二年(一六七二)の富田・赤浜村境界訴訟裁許絵図(木村家蔵)の裏書によると、天正年中(一五七三―九二)荒川の大出水により河岸段丘一段目の字下河内しもごうちにあった集落が冠水したため、第二段丘上にある富田とみだ村秣場を赤浜村の居屋敷として割渡したという。

赤浜村
あかはまむら

[現在地名]高萩市赤浜

東は海に面し、南は高戸たかど村。北部は海岸沿いに平地が開け、南部と西部は台地。海岸沿いを岩城相馬いわきそうま街道(現市道)が通る。

常陸国赤浜妙法寺過去帳の天文二〇年(一五五一)に「妙了太郎へ門母赤浜十一二」とみえ、文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「七百拾六石四斗五升三合 (竜子山分)あかはま」とある。同年の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)にも「赤浜」とあり、竈六具、一貫二〇〇文の小物成が課せられ、元禄郷帳に「赤浜村」とある。

赤浜村
あかはまむら

[現在地名]明野町赤浜

小貝こかい川左岸の台地上にあり、北は中上野なかうえの村。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は三一四石余。明治二年(一八六九)の村鑑帳(広瀬家文書)によれば、延宝五年(一六七七)岡田半助の検地があり、村高三〇七・三三石、田三三町四反三畝七歩半・畑五九町一反二畝二歩半となる。享保一六年(一七三一)の筧播磨守の新田検地では高五三・九五一石が打出された。幕末は天領五三石余、旗本春日氏領四二七石余、西光さいこう寺領七石余(各村旧高簿)

赤浜村
あかはまむら

[現在地名]滑川市赤浜

上市かみいち川東岸、同川と早月はやつき川との複合扇状地に位置し、北は高柳たかやなぎ村、北西堀江ほりえ村。正保郷帳では高四二二石余、田方二七町九反余・畑方二反余、新田高八八石。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四四三石、免四ツ(三箇国高物成帳)。所属組は寺家じけい村と同じ。享保一八年(一七三三)新川郡村廻帳(川合家文書)では村肝煎は七郎左衛門、家数二一(うち百姓一六・頭振三・山伏一)。当村の南端早月川から引水するごう用水(平塚川)が流れる。

赤浜村
あかはまむら

[現在地名]総社市赤浜

まえ川右岸に位置し、南は新庄しんじよう(現岡山市)と接する。中世には一帯に赤浜保が成立する。永仁六年(一二九八)書改を伝える服部郷図(県総合文化センター蔵)の東南端川向うに赤浜保と記される。文安四年(一四四七)頃には奈良春日社領であったが守護押領が進んでいたようで、同年一月二六日、細川氏との交渉の結果、被官の伊達久綱が代官職に補され、一一月七日に久綱は両年分年貢一〇貫文を割符で送っている(「建内記」同日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報