赤沼村(読み)あかぬまむら

日本歴史地名大系 「赤沼村」の解説

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]鳩山町赤沼

石坂いしざか村の西、越辺おつぺ川の左岸に位置し、村内を南東方に流れる同川支流はと川の流域に耕地が広がる。北は大橋おおはし村、西は大豆戸まめど村など、越辺川対岸南東方は入間いるま長岡ながおか(現坂戸市)など。永正一四年(一五一七)五月一四日、出雲守直朝・弾正忠尊能は越生おごせ(現越生町)の山本坊に証状(写、相馬文書)を送り、入西につさい郡出戸より上の支配を「赤(沼カ)之今蔵坊」などに返還することを証している。田園簿によれば田高二一四石余・畑高一七七石余、幕府領。ただし、この高には南方今宿いまじゆく村分も含まれていたと考えられる。元禄郷帳作成時までに同村は分村し、元禄郷帳では高二六六石余、国立史料館本元禄郷帳では米津氏など旗本三家の相給。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]春日部市赤沼・豊野町とよのちよう

現春日部市南東端に位置し、葛飾郡松伏まつぶし領に属した(風土記稿)。東は大川戸おおかわど(現松伏町)、南は古利根川を隔てて埼玉郡平方ひらかた(現越谷市)、西は銚子口ちようしぐち村、北は庄内古しようないふる川を隔てて下総国葛飾郡赤崎あかさき(現庄和町)。田園簿では田一八三石余・畑三七一石余、ほかに常楽じようらく寺領三石がある。寺領を除き、江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。日光道中粕壁かすかべ宿の助郷村で勤高二〇五石(「村鏡類諸書物留書」中島家文書)

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]長野市大字赤沼

千曲川の左岸、あさ川の千曲川への合流点にある。東は千曲川を挟み高井郡大島おおじま村(現上高井郡小布施おぶせ町)と、西は浅川を挟み南郷みなみごう村・いし村(現上水内かみみのち豊野とよの町)と、南は長沼津野ながぬまつの村及び長沼大町ながぬまおおまち村(かん町・栗田くりた町)と、北は浅川で浅野あさの(現上水内郡豊野町)と境する。

嘉暦四年(一三二九)の「諏方上宮五月会流鏑馬之頭・花会頭可為同前御射山頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に八番五月会分として「左頭、太田庄内赤(沼)豊後大夫(島津宗久)判官」とあるように、太田庄に属し、島津氏が地頭職であった。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]郡山市中田町なかたまち赤沼あかぬま

現郡山市南東部の阿武隈高地の西側傾斜地、西流する大滝根おおたきね川が山麓部で張出した残丘に突き当り、北流に転ずる地の北岸部に位置する。「古今著聞集」巻二〇(馬允某陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事)に「あかぬま」とみえ、田村郷の住人馬允某が鴛鴦のつがいを射たが、のち罪障を悔い発心、出家したという。赤沼は前刑部大輔仲能朝臣の所領であった。仲能は藤原秀郷九代の孫で田村を号した仲教の子で、中原親能の猶子となり、のち鎌倉幕府評定衆になっている(尊卑分脈)。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「二段 百文 あかぬま」とみえ、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「一段 百文 西あかぬま」とある。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]中之島村赤沼

刈谷田かりやだ川左岸にあり、上流は小沼こぬま新田枝郷裏小沼うらこぬま中西なかさい村枝郷ッ興野・中西村・高山たかやま新田・当村枝郷浦小路うらこうじに、下流は小沼新田と錯綜して当村枝郷六間ろつけん大沼おおぬま新田につづく。それぞれ上赤・中赤・下赤と通称され、中赤・下赤は集落と耕地の一部にかづらとよぶ堤をめぐらす。

新発田藩主溝口宣勝の、中西村羽賀角助宛元和四年(一六一八)の開発免状(羽賀家文書)に「西野之内赤沼興野新田之事、手拘次第開可申年貢諸役三ケ年己免許候」とある。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]利府町赤沼

春日かすが村の東に位置し、北は桜渡戸さくらわたしど・松島両村(現松島町)、南は塩竈村(現塩竈市)、東は松島村および松島湾に臨む。現利府町を形成する他の村と異なって、江戸時代は、代官および大肝入管轄の異なる宮城郡高城たかぎ郷に属していた。また丘陵地にある村ではあったが、現利府町内では、唯一海に面した地域で、江戸時代浜田はまだ須賀すがの集落があった。石巻いしのまき街道が通る。

地名は永仁二年御配分系図(相馬文書)の相馬胤氏の項に「赤沼六町」、胤顕の項に「赤沼四町」とみえる。応安五年(一三七二)一二月二日、「高城保内赤沼郷」を相馬讃岐次郎に安堵する旨の奉書(同文書)が左衛門佐(斯波詮持か)から発せられ、これを受けた沙弥清光打渡状(同文書)が同月一一日に出されている。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]小野町小野赤沼おのあかぬま

小野新町おのにいまち村の西、右支夏井うしなつい川の支流黒森くろもり川の下流域丘陵地に立地。享徳三年(一四五四)七月一一日の道金譲状(岡本元朝家蔵文書)に「あかぬま」とみえ、道金は隆しげ・くうせうから譲られた小野保内の赤沼ほかを譲与している。天正一二年(一五八四)九月岩城常隆が赤沼に攻め入り、田村清顕方と合戦した(「仙道記」ほか)。江戸時代の領主の変遷は小野新町村に同じ。初め小野新町村などとともに宮古みやこ(仁井町)に含まれていたが、慶安二年(一六四九)までに分立して成立。同年の郡村高免記写(小松家文書)に仁井町のうち赤沼村とみえ、高五〇四石余。元禄期(一六八八―一七〇四)の白河藩領高付帳(小針家文書)では本田高五〇四石余・改出高一九三石余。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]諏訪市四賀しが 赤沼

諏訪湖の東南の平坦地、かみ川の下流沿いにあり、東は上川を隔てて上桑原かみくわばら村、西は福島ふくじま村である。中世には栗林くりばやし郷に含まれていたと考えられ、永禄三年(一五六〇)六月の武田信玄安堵状(矢島文書)に、諏訪社上社の権祝領として「弐拾七貫文 北栗林庄赤沼村」とみえているのが村名の初見。江戸時代を通じて約五〇〇石ほどの村高であった。

「諏訪郡諸村旧蹟年代記」は、「往古水溜水出入も無之赤く渋水故斯云しや」と、この村の立地条件から村名の由来を考証している。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]十和田市赤沼

奥入瀬おいらせ川の左岸、台地の傾斜地に位置する。北は深持ふかもち村、西は三本木さんぼんぎ村支村中掫ちゆうせり、東は三本木村、南は切田きりだ村に接する。

寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に奥瀬おくせ(現上北郡十和田湖町)の支村として村名がみえ、家数二。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には深持村の支村とある。「岩手県史」によると、室町末期には赤沼備中の支配を受け、天文八年(一五三九)以後は奥瀬氏四代重賢が支配したという。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]能代市赤沼・荷八田字阿弥陀林

米代川によって分断され、南側は三方を大内田おおうちだ村に囲まれる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に吹越ふつこし村の東隣に位置して赤沼村新田四四石とある。享保一四年(一七二九)の御判物御国絵図御用留書(県立秋田図書館蔵)に赤沼村は「古絵図ニ高付御座候、今度相改申所ニ高無御座候ニ付新御絵図ニ無高ニ記申候」とある。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]檜山郡厚沢部町新町しんまち・赤沼町

近世から明治三九年(一九〇六)までの村。目名めな村・土橋つちはし村の北、厚沢部川北岸平坦地に立地する。当村は万延年間(一八六〇―六一)南部から来た喜代三が鮭・鱒漁と農業に従事したのに始まるという(明治一九年「青江理事官諮問回答書」市立函館図書館蔵)。天保郷帳に赤沼村とみえる。「蝦夷日誌」(二編)に「小き沼有るよし也。人家二十軒計と聞り。此辺皆炭焼にして畑も少々有。

赤沼村
あかぬまむら

[現在地名]海南市赤沼

海老谷えびたに村の東、かめの川源流域にある山間村で、長峰ながみね山脈の尾根から中腹にあたる北斜面に集落が展開する。那賀なが郡に属し、北は西上谷にしかみだに村、東は長峰山脈を隔てて有田郡ひこ(現金屋町)に対する。古くは石清水いわしみず八幡宮野上のかみ庄に含まれ、野上七村のうち亀ノ川村に属した(続風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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