赤江(読み)あかえ

日本歴史地名大系 「赤江」の解説

赤江
あかえ

大淀川河口右岸に位置する。中世から湊としての機能をもち、近世には田吉たよし村内の赤江湊(赤江町)として隣接するじようさき町とともに交易の拠点として栄えた。垂水新兵衛系図写(予章館文書)に、天正一五年(一五八七)四月一一日高城合戦で討死した垂水秀昌の弟として赤井宝泉ほうせん寺の住持柏融文西の名がみえる。宝泉寺は江戸時代には城ヶ崎町にあった。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(西大寺文書)にみえる日向国宝泉寺を同寺とする説があり、現在城ヶ崎にある宝泉寺脇の俳人墓地には嘉暦三年(一三二八)銘の板碑が現存する。「日向地誌」によると、赤江町は古くは城ヶ崎の地にあり、寛文二年(一六六二)の大地震による津波で被害を受け移転したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤江」の意味・わかりやすい解説

赤江
あかえ

宮崎市、大淀川(おおよどがわ)河口右岸の城ヶ崎(じょうがさき)を中心とする港町。旧赤江町。江戸時代は飫肥(おび)藩領で、堺(さかい)と交易し千石船が出入りした。明治以降、大正年間までは県下最大の河港であった。大淀川舟運で内陸部の高岡と結んだ。現在は港の機能を失い、家屋に当時のおもかげを残すのみである。

[横山淳一]

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世界大百科事典(旧版)内の赤江の言及

【大淀川】より

…この川の上流には都城市,小林市,下流には宮崎市があって,流域の市町村人口の合計は県総人口の約半分を占めており,県の中心的河川である。江戸時代には河口南岸の赤江港は貿易港として栄え,同港に続く城ヶ崎は繁華街を形成したが,堆積物によって河口が浅くなり,港の機能を失った。対岸の砂浜に掘込み式の1万5000トンの船舶の出入りができる宮崎港が開港し,南九州の流通の一拠点をなしている。…

※「赤江」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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