谷中三崎町(読み)やなかさんさきちよう

日本歴史地名大系 「谷中三崎町」の解説

谷中三崎町
やなかさんさきちよう

[現在地名]台東区谷中やなか二―五丁目

美作勝山藩抱屋敷(のち谷中真島町)北方にある。かつては谷中村の内で、町の起立年代は不明。町名の由来は上野台と本郷台の間が入江であった頃、駒込こまごめ田端たばた(現北区)、谷中の三つの丘が岬のように見えたからという。現谷中四丁目と同五丁目との間にある三崎坂を中心に形成された町。東は谷中感応寺やなかかんのうじ新門前町・妙円みようえん寺、西は法住ほうじゆう寺・谷中感応寺やなかかんのうじ古門前町、北は大円だいえん寺・立善りゆうぜん寺・長久ちようきゆう寺。規模は北側は東西七六間三尺、南北は東八間二尺余、中ほど横町の東側三四間三尺余・西側一九間三尺、西方一四間四尺余。南側は東西三三間四尺余、南北は東方七間余・西方一〇間。両側町。反別五反余。東叡山寛永寺創建後は同寺領になり、元禄年間(一六八八―一七〇四)に同寺中堂領になった。延享二年(一七四五)に支配が寺社奉行から町奉行に変わったが、東叡山目代田村権右衛門に年貢を納める。文政九年(一八二六)の家数六一、うち地主一一・家守六・店借四四(文政町方書上)。三崎坂はその傍らに首を振る僧侶が住んでいたので首振り坂ともよばれたという(江戸志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報