護良親王(もりよししんのう)(読み)もりよししんのう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

護良親王(もりよししんのう)
もりよししんのう
(1308―1335)

建武(けんむ)政権下の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)。後醍醐(ごだいご)天皇皇子、母は源親子。「もりなが」と読む説もある。梶井(かじい)門主を経て、1326年(嘉暦1)落飾、翌年天台座主(てんだいざす)となる。法名を尊雲という。大塔宮(おおとうのみや)と称される。関東調伏(ちょうぶく)の祈祷(きとう)を行い、また山門衆徒を味方につけて、父天皇の討幕計画に協力した。元弘(げんこう)の変(1331)が起こり、32年(元弘2)天皇が隠岐(おき)に流されたころ還俗(げんぞく)した親王は、幕府の追及を逃れて大和(やまと)、紀伊(きい)辺に潜行し、各地の寺社、武士に令旨(りょうじ)を発して兵を募った。翌33年、幕府方であった足利高氏(あしかがたかうじ)(のち尊氏)の寝返りにより六波羅(ろくはら)が落ち、6月天皇が入京した。同月に親王は征夷大将軍に任命された。しかし、まもなく父後醍醐との疎隔が深まり、征夷大将軍を解任され声望を失った。さらに尊氏とも対立し、尊氏を襲撃しようとしたが失敗した。34年(建武1)10月、護良に帝位を奪う陰謀あり、と尊氏が親王の継母新待賢門院廉子(しんたいけんもんいんれんし)を通じて天皇に知らせたため、謀反人として捕らえられた。やがて流罪と決まり、鎌倉に護送され、足利直義(ただよし)の監視下に置かれた。翌35年7月北条時行(ときゆき)(高時(たかとき)遺児)が鎌倉を攻めた中先代(なかせんだい)の乱に際し、形勢不利のため西上する直義の命によって、23日(一説に22日)親王は殺された。この親王の非業最期は、直義の命を帯びた淵辺義博(ふちのべよしひろ)が実は親王を逃したという伝説を生んだ。

[田辺久子]

『佐藤進一著『南北朝の動乱』(『日本の歴史9』1965・中央公論社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android