諏訪原城跡(読み)すわばらじようあと

日本歴史地名大系 「諏訪原城跡」の解説

諏訪原城跡
すわばらじようあと

[現在地名]金谷町牧之原

東海道の通る牧之原まきのはら台地に位置する戦国期の城跡。国指定史跡。天正元年(一五七三)一〇月、武田勝頼が築城した(甲陽軍鑑・三河物語)。同年のものと推定される一一月四日の武田勝頼書状写(古文書雑集)によると、遠江出陣の帰路久野くの(現袋井市)懸川かけがわ城に対する城として築かれた。ただし「佐夜郡築地利」とあるのは「榛原郡築地利」の間違いであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「諏訪原城跡」の解説

すわはらじょうあと【諏訪原城跡】


静岡県島田市金谷にある城跡。大井川右岸の牧ノ原台地北部、標高200m前後に位置し、戦国時代には東海道が菊川から牧ノ原に上る地点を押さえる戦略上の要地だった。最初に築城したのは高天神城攻略を目論む武田信玄で、1569年(永禄12)に甲斐から駿河に入り、さらに遠江(とおとうみ)をうかがう前進拠点とした。信玄死後は1573年(天正1)に跡を継いだ勝頼が大規模な修築を加え、城内に諏訪(すわ)明神を祀ったことから諏訪原城と名づけられた。勝頼はこの諏訪原城を拠点として翌年には念願の高天神城を奪取し、遠州支配の足がかりをつかんだが、1575年(天正3)の長篠(ながしの)の戦いで織田・徳川軍に完敗し、徳川方の侵攻を受けると、ついに落城した。家康入城後は牧野原城と改名され、城主には松平周防守康親(すおうのかみやすちか)を配した。その後も駿河・遠江両国境の城として機能していたが、1582年(天正10)に武田氏が滅びるとその重要性を失い、のちに廃城となった。現在でも『甲陽軍鑑』に見られる郭(くるわ)や馬出しと堀や土塁がよく残っており、城砦としての優れた築城術をうかがい知ることができることから、1975年(昭和50)に国の史跡に指定された。JR東海道本線金谷駅から徒歩約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報