覚応寺(読み)かくおうじ

日本歴史地名大系 「覚応寺」の解説

覚応寺
かくおうじ

[現在地名]館林市栄町

市街の西部、東武伊勢崎線館林駅北方にある。仏光山太子院と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来開基佐々木盛綱の子孫林通と伝える。盛綱は越後流罪中の親鸞について出家、西念と称した。建保五年(一二一七)西念は越前国大野おおの折立おりたて(現福井県足羽郡美山町)に一寺を創立し正行しようぎよう寺と称した。しかし林通の父祐宝の時同地称名しようみよう寺と争論を起こし、同国を出奔、武蔵国を経て上野国邑楽おうら羽附大袋はねつくおおふくろに移り当寺を創建したという。

覚応寺
かくおうじ

[現在地名]堺市九間町東三丁

本願寺堺別院の北に隣接する。浄土真宗本願寺派、山号正中山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると伊予の豪族河野通有の子通元が覚応坊と称して日向国霧島きりしま山麓に正中二年(一三二五)開創したのが起源という。その後堺北鏡屋きたかがみや町に移り、五世覚貞が蓮如帰依し坊号を現寺号に改め、さらに現在地に移転したという。石山合戦に尽力し、天正八年(一五八〇)本願寺顕如大坂退出して紀州へ赴く際随身、顕如より感状を付与された(年欠四月二三日「顕如書状」寺蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報