西久留米(読み)にしくるめ

日本歴史地名大系 「西久留米」の解説

西久留米
にしくるめ

[現在地名]久留米市西町にしまち小頭町こがしらまち

筑後川下流左岸、久留米段丘の南辺に位置し、中央を金丸かなまる川が西流する。西は庄島しようじま村。久留米城下の形成によって北部が城下に組込まれた。東部を城下から上妻かみつま郡方面に向かう豊後別路、南部を久留米柳川往還が通る。久留米城の築かれた丘陵は戦国時代末期にとう郷・西さい郷に分れ、丘陵上には東久留米・西久留米の鎮守である山王社がそれぞれ祀られていたという(久留米市誌)。文禄二年(一五九三)三月一八日の高良社神職名知行注文案(歴世古文書)に西久留米とみえ、「座主加増地 但麟圭本領」六町があった。慶長一三年(一六〇八)四月二〇日、西久留米庄屋の清兵衛などが「柳川らんかん橋」前の荒川瀬兵衛屋敷に出向くよう命じられている(「田中勘右衛門・荒川瀬兵衛連署状」歴世古文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報