裁判事務心得(読み)さいばんじむこころえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「裁判事務心得」の意味・わかりやすい解説

裁判事務心得
さいばんじむこころえ

明治初期に、裁判の基準を明らかにするために出された法令。明治8年(1875)6月8日太政官(だじょうかん)布告第103号。明治初期の法制度がまだ完備していなかった時代に適切な裁判基準を示したものであり、特定の外国立法をそのまま模倣したものではない明治政府の創案にかかる法令として、日本の法律発達史上重要なものとされている。

 本布告は5か条からなる(資料参照)。第1条は、民事事件刑事事件に共通して、裁判をすることについて疑義がある場合に、上級裁判所(「上等ナル裁判所」)に伺いをたてることで裁判を中止することを禁止し、遅滞なく裁判すべきことを定めたものである。もっとも、この条文の但書は、刑事に関する死刑事件と無期懲役事件は「此例ニアラス」としたので、死刑事件と無期懲役事件については上級裁判所に伺いをたてることも可能であった。しかし、その後の法令全書では、第1条の刑事に関する事項につき、「十三年第三十七号布告により刑事に関する廉(かど)消滅」(廉とは事項の意味)との注記が欄外に記載された。すなわち、明治13年の太政官布告第37号の治罪法制定により、刑事事件に関する上訴制度が整備されたため、一定の刑事事件について上級裁判所に伺いをたてることを許容した規定の効力も消滅したことを注記したのである。

 第2条も、民刑共通であって、裁判に対する不服の申立ては当該の裁判をした裁判所ではなく、規定に従って、期限内に上級裁判所に控訴もしくは上告すべきことを明らかにしたものである。上訴制度は、1880年の治罪法、1890年の裁判所構成法および民事訴訟法により整備されたので、第2条はこれらの法整備後は独立の存在意義を失ったことになる。

 第3条は、民事裁判に関して、成文法がないときは慣習法により、慣習法のないときは条理によって裁判すべきことを規定している。条理による裁判を肯定した第3条の規定が現在でも有効であるかについては論争があり、かつては第3条をもって「わが国古来の法源並びに司法に関する伝統に立脚」(杉山直次郎、1878―1966)するものとして有効説が支配的であったが(穂積陳重(ほづみのぶしげ)、杉山直次郎、梅謙次郎(うめけんじろう)など)、その後、「裁判官は、法律に規定がないといって裁判を拒むことはできないし、その場合には、自分が立法者ならば規定したであろうと考えられるところ、すなわち条理に従うの他はないのであるから、上記の両規定(裁判事務心得第3条および同趣旨のスイス民法第1条)は、結局、裁判の本質上当然なことを規定したにすぎない。したがって、この太政官布告が布告として今日その効力を維持するかどうかに関係なく、かような結果を是認しなければならない」(我妻栄(わがつまさかえ))とする説も主張されてきた。今日でも、たとえば、我妻栄編集代表『旧法令集』(1968・有斐閣)の「凡例」は、裁判事務心得を「形式上は廃止されていないが実質的に失効していると解される法令」に分類しているのに対して、法務大臣官房編『現行日本法規 主要旧法令1 公法(1)』(ぎょうせい)は、1976年(昭和51)の同書「はしがき」で、旧法令を登載するにあたって旧法令の改廃等の沿革を明らかにする注記を施すこととしたとし、裁判事務心得につき「第3条から第5条までの規定は、現に効力を有するものと解される」との注を付しており、理解が分かれている。なお、裁判事務心得第3条の有効性に関する論争と関連して、さらに、条理そのものの法源性についても、とくに民法総則において学説上争いがあり、肯定説と否定説とがある。

 判例における条理の扱いに関して、法典が十分に整備されていなかった明治初期には、裁判事務心得第3条に基づき条理に依拠した裁判もなされたとされているが、その後、民法典(明治29年法律第89号)、商法典(明治32年法律第48号)などの整備が進むにつれ、条理を根拠にしないと裁判ができないという事態は著しく減少し、今日では特殊な場合のほか条理を直接の根拠とする裁判の例はまず見当たらないとされている。特殊な場合として、たとえば、マレーシアにおける航空機事故に関する日本国内に営業所を有する外国法人に対する損害賠償請求と日本の裁判管轄権に関して「条理にしたがって決定するのが相当」として裁判権を認めた判例(最高裁判所昭和56年10月16日判決、民集35巻7号1224頁)あるいは日本に居住する日本人のドイツに居住するドイツ人に対する離婚請求訴訟につき日本の国際裁判管轄権を肯定することが「条理にかなう」とした判例(最高裁判所平成8年6月24日判決、民集50巻7号1451頁)などがある。

 なお、第3条は民事裁判に関する規定であるが、刑事裁判については1880年の旧刑法(太政官布告第36号)第2条が、「法律ニ正条ナキ者ハ何等(なんら)ノ所為ト雖(いえど)モ之(これ)ヲ罰スルコトヲ得ス」としていわゆる罪刑法定主義を定めているので、条理に基づく裁判が許されないことは当然であるが、裁判事務心得が制定された1875年当時は、1870年の新律綱領のいわゆる「不応為(ふおうい)」の規定すなわち「凡律令ニ正条ナシト雖モ、情理ニ於テ為スヲ得応(うべ)カラザルノ事ヲ為ス者ハ、笞(ち)三十。事理重キ者ハ、杖(じょう)七十」の規定がなお効力を有していたのであって、刑事についての情理(条理)による裁判が前提とされていたとみる見解がある(穂積陳重、杉山直次郎など)。不応為の規定とは、唐律の不応為律に由来するものであり、法律に処罰規定がない場合であっても条理に依拠して処罰することができるとするものである。

 第4条と第5条は、いずれも裁判の基準とはなしえない場合を規定したものであり、第4条は、判例の法源性を否定し、第5条は諸官省の「指令」の法源性を否定したものである。指令とは、新律綱領などの解釈について生じた疑義をめぐり、地方官や各裁判所からの伺いに対して司法省などから出された指令をいう。このような指令の一般的な法源性も否定された。

[田口守一 2018年8月21日]

資料

裁判事務心得(明治8年6月8日太政官布告第103号)原文
今般裁判事務心得左ノ通相定候条此旨布告候事
第一条 一 各裁判所ハ民事刑事共法律ニ従ヒ遅滞ナク裁判スヘシ疑難アルヲ以(もっ)テ裁判ヲ中止シテ上等ナル裁判所ニ伺出ルコトヲ得ス但シ刑事死罪終身懲役ハ此例ニアラス。

第二条 一 凡(およ)ソ裁判ニ服セサル旨申立ル者アル時ハ其(その)裁判所ニテ弁解ヲ為(な)スヘカラス定規ニ依(よ)リ期限内ニ控訴若(もし)クハ上告スヘキコトヲ言渡スヘシ。

第三条 一 民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ。

第四条 一 裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス。

第五条 一 頒布セル布告布達ヲ除クノ外諸官省随時事ニ就テノ指令ハ将来裁判所ノ準拠スヘキ一般ノ定規トスルコトヲ得ス。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「裁判事務心得」の意味・わかりやすい解説

裁判事務心得
さいばんじむこころえ

明治8年太政官布告 103号。 1875年6月8日制定された法令。その第3条に「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ,習慣ナキモノハ,条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」と定めて,慣習が成文法のない場合の第2次裁判規範であることを明言する (これ以前でも同様の扱いはなされていた) とともに,条理が成文法,慣習法に次いで第3の法源とされていることが重要である。この規定は「近世立法の傑作」であるとたたえる学者もいる。

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世界大百科事典(旧版)内の裁判事務心得の言及

【条理】より

…一般には,物事のすじみち・道理という意味であり,法律上でも,ほぼこのように用いられるが,法特有の意味がある。 1875年太政官布告〈裁判事務心得〉3条は,〈民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ〉と規定し,条理をもって民事裁判の基準とすべき旨を定めた。この布告が現在でも法律としての効力をもっているかどうかは問題であるが,学説は,一般に,この規定の精神を根拠として,条理を,制定法,慣習に次ぐ私法法源の一つと考えている。…

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