藤岡村(読み)ふじおかむら

日本歴史地名大系 「藤岡村」の解説

藤岡村
ふじおかむら

[現在地名]藤岡町藤岡

東は赤麻あかま沼、北西底谷そこや村、西を渡良渡川が南へ流れる。東西を水に囲まれた段丘上を占める。南北に下総古河と栃木町を結ぶ道が通る。平将門の乱後、興世王の家臣によって開かれ、花岡はなおかと称されたと伝える。

平安末期築城と伝える藤岡城は戦国期小田原北条氏・佐野氏・越後上杉氏・常陸佐竹氏らの勢力の間に位置することになり、当村一帯はしばしば合戦の場となった。永禄七年(一五六四)と推定される一一月四日付の足利義氏書状写(豊前氏古文書抄)に「藤岡」とみえ、上杉景虎の下野出陣に合せ、佐野昌綱らが前月二七日藤岡城を攻撃したことがみえる。天正二年(一五七四)一一月二二日には関宿せきやど(現千葉県東葛飾郡関宿町)の北条氏照攻めのため上杉謙信が藤岡の北西沼尻ぬまじりに着陣した(同月二四日「上杉謙信書状写」小田部庄右衛門氏所蔵文書)。しかし同一一年頃には小田原北条氏の勢力下にはいったらしく、同年と推定される四月三〇日には下総古河から藤岡までの伝馬三疋の差出しを命じる北条氏照の印判状(池沢清氏所蔵文書)生井なまい(現小山市)の大橋宛に出されている。翌一二年五―六月には上杉・北条両軍が藤岡に対陣したらしく(五月二七日「道誉太田資正書状写」歴代古案)、一二月一〇日氏照以下の軍勢が当地へ入った(同月一五日「北条氏照書状」色部文書)

藤岡村
ふじおかむら

[現在地名]篠山藤岡口ふじおかくち藤岡奥ふじおかおく

鷲尾わしお村の西に位置し、黒岡くろおか川が流れる。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「藤岡村」とみえ、高一九四石余。正保郷帳でも藤岡村として田高一八三石余・畠高一一石余。元禄郷帳では高一九六石余。「丹波志」ではきた庄のうち藤岡とあり、熊谷くまだにの支郷で、高二九二石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では新庄組で、家数五一・人数二三四。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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