藤吉村(読み)ふじよしむら

日本歴史地名大系 「藤吉村」の解説

藤吉村
ふじよしむら

[現在地名]久留米市大善寺町藤吉だいぜんじまちふじよし

夜明よあけ村の西、ひろ(大善寺川)下流左岸の平地に位置し、南西黒田くろだ村。中世は三潴庄とう郷のうち。南北朝期に安楽寺(太宰府天満宮)領となる。建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文に藤吉三町がみえる。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)によると、藤吉には本定額一五口のうち背振せふり山大教坊安常が知行する料田一町があり、柳坂実乗房厳琳が知行する高三潴たかみづま(現三潴町)の仁王講料田一町に「藤吉一反別人」の注記がある。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると藤吉村は大善だいぜん玉垂たまたれ宮の春祠使幣官料一石六斗の神事用途を負担し、五月会では渡物として恒武村(比定地未詳)とともに一番馬長二騎を出し、ほかに一物を負担する六ヵ村の一つであった。

当地名字の地とする領主に藤吉氏がいる。朝日ちようにち寺の開山神子栄尊の母は三潴庄住人藤吉種継の女であった(栄尊和尚年譜)。他方、建武三年(一三三六)三月に三潴庄藤吉村地頭職を安堵された藤吉又次郎種家の子息光童丸の言上状案(高浜辺文書/南北朝遺文(九州編)七)によると、この地頭職は光童丸の高祖父田尻四郎種継が文永の役の恩賞として与えられた所領であったが、元徳元年(一三二九)以来収公されたという。

藤吉村
ふじよしむら

[現在地名]三橋町藤吉

今古賀いまこが村の南西、塩塚しおつか川右岸に位置し、北は高畠たかはたけ村としん(現柳川市)柳川城下一角である柳河町の城堀を挟んだ東にあった。「柳河明証図会」には「御城の東松 大手の内なり」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録に藤吉村とあり、高九六九石余、「よしかた」分は一石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別五四町二反余・分米六九二石余、村柄は中とある。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高七〇九石余・新田高二七石余、小物成は山手米九斗余。旧高旧領取調帳では高九一四石余、幕末から明治初年の反別四六町六反余(郡郷)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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