藤原隆能(読み)ふじわらのたかよし

精選版 日本国語大辞典 「藤原隆能」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たかよし【藤原隆能】

平安末期の画家大和絵に長じ、当代の代表的画家であり、現存の「源氏物語絵巻」の作者と伝えられる。また、鳥羽金剛心院扉絵を描いた功により、久寿元年(一一五四)に正五位下に、翌年三河守に任ぜられている。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「藤原隆能」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐たかよし〔ふぢはら‐〕【藤原隆能】

平安後期の宮廷画家。鳥羽金剛心院の扉絵や鳥羽上皇肖像蒔絵まきえ下図など幅広く活躍。「源氏物語絵巻」の作者と伝えられる。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原隆能」の意味・わかりやすい解説

藤原隆能 (ふじわらのたかよし)

平安後期,12世紀中ごろに活躍した宮廷画家。生没年不詳。蔵人正五位下で1155年(久寿2)には三河守に任ぜられた中級貴族。現存作例はないが,画技をよくしたことが《台記》《兵範記》などに記されている。久安3年(1147)藤原忠実の70歳の賀の蒔絵硯箱の絵様を図し(《台記》),仁平4年(1154)8月には鳥羽金剛心院阿弥陀堂扉絵に《九品来迎図》を描いて賞せられた(《兵範記》)。また後白河上皇の命により鳥羽上皇の肖像画を制作するなど,専門画人として幅広い活動が知られている。鳥羽上皇の肖像画を承安4年(1174)に天王寺において拝した藤原経房が〈故隆能画〉と《吉記》に記していることより,そのおおよその没年が知られる。かつて徳川五島本《源氏物語絵巻》の作者として名高かったが,それは江戸時代の鑑定家によるものである。今日12世紀前半と考えられている同絵巻の成立より,推定される彼の作画期間はややおくれることからも,認めがたい。
筆者

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百科事典マイペディア 「藤原隆能」の意味・わかりやすい解説

藤原隆能【ふじわらのたかよし】

平安時代後期の代表的大和絵画家。伝記は不詳であるが,1154年鳥羽金剛心院の扉絵(とびらえ)を描いたこと,1174年天王寺に故隆能作の鳥羽天皇御影があったことなどの記録があり,廷臣であったと推測される。《源氏物語絵巻》の作者とされるが,確かでない。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原隆能」の意味・わかりやすい解説

藤原隆能
ふじわらのたかよし

生没年未詳。平安後期の宮廷画家。1174年(承安4)以前に没したことが知られる。清隆(きよたか)の子。廷臣であったが画技に秀で、鳥羽(とば)院の御用を多く勤める。1154年(久寿1)、鳥羽金剛心院の扉絵を描いて、正五位下となり、翌55年に三河守(みかわのかみ)に任じられる。また当時、四天王寺にあった鳥羽院の肖像画は、後白河(ごしらかわ)院の命によって隆能が描いたもの。このほか蒔絵(まきえ)のデザインなども行っている。江戸時代より『源氏物語絵巻』(徳川本・五島(ごとう)本)の筆者と伝えられてきたが確証はない。

[加藤悦子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原隆能」の解説

藤原隆能 ふじわらの-たかよし

?-? 平安時代後期の画家。
久安3年(1147)藤原忠実(ただざね)の七十賀の蒔絵硯箱(まきえすずりばこ)の絵様をえがく。ほかに鳥羽(とば)金剛心院の扉絵,鳥羽上皇の肖像画などをえがき,承安(じょうあん)4年(1174)以前に没したことが知られている。江戸時代より「源氏物語絵巻」の作者とされてきたが可能性はすくない。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原隆能」の解説

藤原隆能
ふじわらのたかよし

生没年不詳。平安後期の宮廷絵師。1147年(久安3)藤原忠実七十の賀の蒔絵硯筥(まきえすずりばこ)の絵様を,54年(久寿元)には鳥羽金剛心院の扉絵を描いた。四天王寺の鳥羽院御影(みえい)は74年(承安4)時で「故隆能画」と記されており(「吉記」),没年の下限が知られる。かつて「源氏物語絵巻」の作者とされていたが確証はない。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原隆能」の意味・わかりやすい解説

藤原隆能
ふじわらのたかよし

平安時代後期,12世紀中頃の宮廷画家。久安3 (1147) 年,関白藤原忠実の 70歳の賀のときの蒔絵硯箱の下図を描き,仁平4 (54) 年,鳥羽金剛心院の扉絵制作で正五位下を受け,翌年三河守に任じられた。また後白河院の命で鳥羽院の遺影を描くなど広い作画活動が知られる。江戸時代以後『源氏物語絵巻』の作者とされたが,なんら根拠がない。

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朝日日本歴史人物事典 「藤原隆能」の解説

藤原隆能

生年:生没年不詳
平安後期の宮廷絵師。久安3(1147)年,藤原忠実七十賀の蒔絵硯箱の絵様を描く。久寿1(1154)年,京都金剛心院の扉絵の賞として正五位下,翌2年三河守になる。承安4(1174)年には没していたことが知られる。作品は現存しない。

(長谷川稔子)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原隆能」の解説

藤原隆能
ふじわらのたかよし

生没年不詳
平安末期の画家
蔵人 (くろうど) ・三河守などを歴任。絵所預に補せられ,藤原基光につぐ土佐派の祖とみられている。『源氏物語絵巻』の筆者と伝えられる。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原隆能の言及

【源氏物語絵巻】より

…画面の緻密に計算された有機的構図が各場面の詩的な情趣を象徴的に表現するとともに,引目鉤鼻(ひきめかぎばな)と呼ばれる類型化した面貌描写も,実際には細緊な筆線を引き重ねることによって人物の微妙な心理を表出しえている。絵の作者は12世紀中期に活躍した宮廷画家藤原隆能(たかよし)と伝えられ,この絵巻も隆能源氏として親しまれてきた。しかし,詞書の書風が4~5種に分かれているように,画風も表現技法の点から,〈柏木〉から〈御法〉までの1巻を頂点として大きく4グループほどに分類され,おそらく12世紀前半,白河・鳥羽の院政期に優れた宮廷画家たちを中心に分担制作されたものと思われる。…

※「藤原隆能」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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