荘田平五郎(しょうだへいごろう)(読み)しょうだへいごろう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

荘田平五郎(しょうだへいごろう)
しょうだへいごろう
(1847―1922)

明治期の三菱(みつびし)財閥の最高幹部。豊後(ぶんご)国(大分県)臼杵(うすき)に下級武士の長男として生まれる。慶応義塾を卒業後、1875年(明治8)に三菱商会に入社した。有名な「三菱会社社則」や「郵便汽船三菱会社簿記法」を起草した。80年には若くして最高幹部に任ぜられた。85年に郷里の第百十九、第百四十九の両国立銀行が破綻(はたん)すると経営を受け継ぎ、三菱の銀行経営の端緒をつくった。三菱が東京・丸ノ内の原野陸軍から買ってビル街を建設したのは、荘田の進言によるものであった。97年から長崎造船所の支配人として労務管理制度をつくり、工業予備校を創設した。94年から1910年(明治43)まで三菱合資本社の支配人になり、また東京海上(現東京海上日動火災)、明治生命(現明治安田生命)の会長をはじめ、傍系企業の役員を多数兼任した。合理主義に徹し、固い信念と明確な計算で行動し、三菱の最初の近代的専門経営者であった。妻は三菱の創設者岩崎弥太郎(やたろう)の妹藤岡サキの長女田鶴(たづる)である。

[三島康雄]

『宿利重一著『荘田平五郎』(1932・対胸舎)』

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