旧相模川橋脚(読み)きゆうさがみがわきようきやく

日本歴史地名大系 「旧相模川橋脚」の解説

旧相模川橋脚
きゆうさがみがわきようきやく

[現在地名]茅ヶ崎市下町屋 中河原

国道一号(旧東海道)の南、小出こいで川の東岸の池に残る。大正一二年(一九二三)の関東大震災の際の地盤変動で、水田のなかから出現した太い円筒形の木柱。九本が確認されたが、地上に露出したのは七本。三本が横一列に配された四列分にあたり、幅七メートル余、四列目までの長さ二三メートル余。木柱は径約六〇センチの檜の丸柱である。これは鎌倉時代に、源頼朝の臣稲毛重成が亡妻追善供養のため相模川に架けた橋の橋脚部分と推定された。「吾妻鏡」建暦二年(一二一二)二月二八日条によれば「相模河橋数ケ間朽損」のため修理をするにあたって、橋は建久九年(一一九八)重成が新造し、橋供養で渡初めをした頼朝が還路落馬して死に、重成も討たれ、橋の再興は吉事でないという群議がなされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「旧相模川橋脚」の解説

きゅうさがみがわきょうきゃく【旧相模川橋脚】


神奈川県茅ヶ崎市下町屋にある橋脚跡。1923年(大正12)の関東大震災と翌年余震にともなう液状化現象で水田の中から出現した。歴史学者・沼田頼輔(らいすけ)博士が『吾妻鏡』に基づき、1198年(建久9)に源頼朝の重臣稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻の追善供養のために架橋した橋脚と考証し、1926年(大正15)に国の史跡に指定された。2001年(平成13)から保存整備を目的とした発掘調査が3次にわたって実施された結果、新たに見つかった橋杭1本を含め檜製の橋杭が合計で10本確認され、2m間隔で3本からなる1列の橋脚が、10m間隔4列に配置されていることが明らかになった。橋杭については年輪年代測定により、西暦1126年から1260年に伐採されたことが判明。橋脚に近接する川岸護岸のために構築された、中世前半期の厚さ11cmもの横板・角柱・礫などによる土留め遺構なども確認された。JR東海道本線茅ヶ崎駅から神奈中バス「今宿」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報