英仏守備兵の横浜駐屯(読み)えいふつしゅびへいのよこはまちゅうとん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「英仏守備兵の横浜駐屯」の意味・わかりやすい解説

英仏守備兵の横浜駐屯
えいふつしゅびへいのよこはまちゅうとん

幕末の文久3 (1863) 年5月 18日,江戸幕府はイギリスとフランスの軍隊に横浜駐屯を許可した。これは尊王攘夷運動が最も盛んだった時代であるだけに,幕府解体を予告する象徴的事件といえる。攘夷に燃える諸藩と朝廷圧力に,中央権力としての力を弱めてきていた幕府は,文久3年5月 10日を期し攘夷に踏切ると天皇に答えざるをえなかった。この期限になると長州藩は5月 10日下関海峡でアメリカ商船を砲撃,5月 23日にはフランス艦,5月 26日にはオランダ艦を攻撃した。これがいわゆる下関事件である。この不穏な情勢にイギリス,フランスは幕府に対して軍隊の駐屯を要求,幕府もこれを許可せざるをえなくなった。その後もこの種の攘夷運動は続き,6月1日には長州に対するアメリカの報復攻撃があり,6月5日にはフランス艦2隻により長州藩砲台の砲撃,占領があり,7月2日には薩英戦争が起り,翌年8月には四国艦隊下関砲撃事件が起った。

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