若江村(読み)わかえむら

日本歴史地名大系 「若江村」の解説

若江村
わかえむら

[現在地名]東大阪市若江〈ほん町一―四丁目・西新にししん町一―四丁目・きた町二―三丁目・ひがし町一―三丁目〉・花園西はなぞのにし町二丁目・玉串たまくし西にし一丁目など

若江郡に属し、大和川付替えまでは東の村境を流れる玉串川で河内郡市場いちば村に対していた。西方楠根くすね川が流れ、平坦な地域で条里制の坪名が小字名に残る。天正一一年(一五八三)若江村三千六二〇石が豊臣氏の直轄地となり、一柳直末が代官であった(布施市史)。初めは上若江かみわかえ村・下若江村を含んで若江村と称しており、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二千八二四石余、うち一千七〇七石余が幕府領、一千一一六石余が山城淀藩永井尚政領、うち枚方替地物成詰増石改新田一一五石余。

若江村
わかえむら

[現在地名]筑紫野市若江・筑紫駅前通ちくしえきまえどおり一―二丁目

筑紫村の南東にあり、南東流する宝満ほうまん川右岸に位置する。東は下見したみ村。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文(正任記)では井上大和守跡の「三笠郡若江村」内四町などが石松道秀に宛行われている。小早川時代の指出前之帳では若江村の田一三町八反余(分米一五八石余)・畠二町二反余(分大豆一〇石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は三三四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三三四石余、家数一〇・社一、人数八一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も三三四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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