若森村(読み)わかもりむら

日本歴史地名大系 「若森村」の解説

若森村
わかもりむら

[現在地名]大穂町若森

村の南、桜川西方筑波稲敷つくばいなしき台地上に居住区がある。村域には縄文土器が出土する若森西わかもりにし遺跡、縄文中期の土器土師器須恵器が出土する若森池西わかもりいけにし遺跡が確認されている。

嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(長島千竈文書)に「ひたちのくに わかもりの郷三分一のちとう御代官職」とあり、北条氏被官千竈氏が得宗家領の代官を勤めていた。康永三年(一三四四)二月の別府太郎幸実軍忠目安(「後鑑」所収集古文書)によると、暦応四年(一三四一)五月から一一月にかけて北朝勢と南朝方小田氏との対戦があり、七月一三日には「於若森合戦仕訖」とある。

若森村
わかもりむら

[現在地名]大垣市若森町・南若森町みなみわかもりちよう・南若森

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の西部に位置し、北は切石きりいし村とその枝郷久瀬川くぜがわ村。若杜とも記す。中世には大井おおい庄の庄域といわれ(新撰美濃志)、村内を美濃路が通る。寛喜三年(一二三一)五月一一日の中原章行問注勘状(宮内庁書陵部蔵)に「若杜庄」とみえるが、当村はその遺称地であろうか。永仁三年(一二九五)六月日の大井庄実検馬上取帳案(東京大学史料編纂所蔵など)に「石包若杜」の名が散見する。「碧山日録」寛正二年(一四六一)一二月九日条によると、「若森里」を発った雲泉大極は、その日の夕方関里(現関市)に到達している。

若森村
わかもりむら

[現在地名]園部町若森

埴生はぶ村の東にあり、東は大内おおち(現亀岡市)、南は大谷おおたに村、北は殿谷とのだに村に続く。中央部を園部川の支流本梅ほんめ川が北西に流れる。川の北東部は山地で、川の南西耕地集落があり、集落は勝手かつて神社の南方地域と村域の西端近く普済ふさい寺の北方小字門前町もんぜんちようの近辺に分散する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報