興道寺村(読み)こうどうじむら

日本歴史地名大系 「興道寺村」の解説

興道寺村
こうどうじむら

[現在地名]美浜町興道寺

みみ川左岸、佐野さの村の下流に立地。南北に走る矢筈やはず岳の尾根の東側山裾にあたる。「若狭郡県志」に「元属耳庄、今世為山西郷之内、去小浜八里余也、有小村、号西興道寺、相伝古有寺、名興道寺、廃絶有年、今為村名矣」とある。

弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「八十三文 興道寺」とある。永禄六年(一五六三)の朝倉氏若狭攻めのとき佐柿国吉さがきくによし城に籠城した地侍の中に当村の長野喜太郎の名がある(佐柿国吉城籠城記)。慶長九年(一六〇四)の興道寺村惣太夫等山刈ニ付詫状控(加茂文書)によれば、惣太夫らは隣地西郷さいごう山林の一部へ入山を許されていたが、ほかの山への入山は禁じられていた。

興道寺村
こうどうじむら

[現在地名]国東町鶴川つるかわ 興導寺こうどうじ

今在家いまざいけ村の南西に位置する。天徳三年(九五九)空也による創建と伝える天台宗興導寺がある。小倉藩元和人畜改帳に藪図書知行分として興道寺村とみえ、高三二五石余で、家数六一のうち本百姓・小百姓一七、隠居・名子・牛屋三七、大工一、男四〇(うち名子一〇)・女二七、牛二二・馬五。正保郷帳では来崎くのさき郷興道寺村として田高一四八石余・畑高一〇三石余で、ほかに新田が開かれ、茅山・柴山があり、半分日損所と注記される。天保郷帳では高四六六石余。享保一七年(一七三二)の免は春免四ツ七分に対して二ツ一分五厘となっている(後藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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