興善寺(読み)こうぜんじ

日本歴史地名大系 「興善寺」の解説

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]橿原市戒外町

天香久あめのかぐ山南東にあり、香山こうせん寺ともいう。香久山と号し、真言宗豊山派本尊文殊菩薩像(室町時代)。寺域から本薬師寺式・藤原宮式・岡寺式の古瓦が出土。創建は奈良時代以前にさかのぼると考えられる。「三代実録」元慶四年(八八〇)一一月二九日条に、天皇の平癒祈願のため使を派遣した一二寺の一つとして「香山寺」がみえるが、現奈良市にも同名の寺があったとされる。「興福寺官務牒疏」には「香久山寺、在高市郡、亦曰興善寺三学院、僧房八坊、大安寺道慈法師開基也、本尊文殊大士」とあり、江戸時代中期まで本堂・御影堂・鐘楼・鎮守社・僧房七宇があった(大和志)

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]妙高村関山

南北にまっすぐな国道一八号の西側を旧道が蛇行して走る。関山せきやま神社前を通り宝海ほうかい寺前で東へ折れ、また南へ曲がって小野沢おのざわ集落に入る。その手前西側にある。浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。享保一〇年(一七二五)教導により開基されたといわれる(中頸城郡誌)。もと高田たかだ(現上越市)瑞泉ずいせん寺末である。当寺は近世には宝蔵院の配下にあり、宝海寺とともに寺務を扱った。文政一一年(一八二八)の由緒書(興善寺文書)に次のようにある。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]岬町多奈川谷川

西谷にしたにの山腹にある。天台宗。鳳樹山金剛院と号し、本尊は大日如来。寺伝によると、もと当地に一本の巨樟があり、その空洞に一人の道人が住し修行をつんでいた。この道人の病気平癒の祈祷の効験は広く知られていた。病床にあった文徳天皇がこの風聞を聞き、道人を招いて祈祷させたところ天皇の病は快癒した。そこで道人の希望を聞いたところ、巨樟のところに伽藍を建て、大日如来を祀ることが宿願であったといって忽然と姿を消した。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]白岡町白岡

岱崇山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によると、当初天台宗寺院として創建。文亀元年(一五〇一)に遠州高尾山石雲せきうん(現静岡県榛原町)二世季雲永嶽が中興開山となり、曹洞宗に改宗。開基牌には「徳巌正隣大禅定門」とあり、菖蒲しようぶ(現菖蒲町)の城主佐々木氏の二代氏綱が中興開基とされている。また、五世智翁永殊は後陽成天皇より心通徳江禅師の称号を受けている。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]久世町久世

旧大山往来沿いの田下たじたにある日蓮宗寺院。正法山と号し、本尊は七字之首題十界勧請曼荼羅。慶長一三年(一六〇八)に自性院日元が久世村原方の井手端はらかたのいでばたに小庵を営んだところ、久世の商人塚谷屋杉山三郎右衛門が帰依し、伽藍と土地を寄進して現在地に移転したという。貞享四年(一六八七)には塚谷屋分家の山口屋三郎右衛門が仁王門を寄進し、寛延元年(一七四八)仁王像を安置した。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]桜井市大字赤尾

忍坂山口坐おしさかのやまぐちにいます神社南西方に所在し、同社の神宮寺であった。白雲山と号し、光善寺とも記す。廃寺同様になっているが、本尊毘沙門天立像・薬師如来坐像(平安時代)の二体を安置。これはかつて粟原おうばら(現桜井市)に存した仏像で、ほかにも同寺の仏像を収納していたが、一時石位いしい(現同上)に移され、さらに大正六年(一九一七)長野市の清水せいすい寺に贈与された。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]奈良市十輪院畑町

法輪山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと元興がんごう(現奈良市)別院であったといい、天正年間(一五七三―九二)に愛誉によって中興されたといわれる。寺宝には国指定重要文化財の源空とその門弟証空らの自筆消息(平安―鎌倉時代)があり、本尊の木造阿弥陀如来立像および漆塗筒形納骨器も同文化財になっている。

興善寺
こうぜんじ

[現在地名]都祁村大字白石小字遊行

南白石みなみしらいし集落のほぼ中央にある。大栄山と号し、融通念仏宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば天正年間(一五七三―九二)道音の開基、現在の本堂は元禄九年(一六九六)の建立という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「興善寺」の意味・わかりやすい解説

興善寺
こうぜんじ

大興善寺

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