脇川村(読み)わきがわむら

日本歴史地名大系 「脇川村」の解説

脇川村
わきがわむら

[現在地名]三木市細川町脇川ほそかわちようわきがわ

佐野さの村・西にし村の北に位置し、吉川よかわ谷の入口付近で美嚢みの川に合流する脇川流域に立地する。慶長国絵図に「わ井川村」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。寛永九年(一六三二)上知され、正保郷帳では幕府領で、田方一〇〇石余・畑方一五石余。元禄郷帳では高一二三石余。享保一五年(一七三〇)から寛保二年(一七四二)まで大坂城代土岐氏領であった(享保一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)。以後幕府領として幕末に至る(旧高旧領取調帳など)。天保郷帳では高一四〇石余。明治一四年(一八八一)の戸数二〇・人口八八(地種便覧)

脇川村
わきがわむら

[現在地名]東村脇川

新利根川右岸に成立した新田村で、北は中島なかじま村、南は清久島せいきゆうじま村。古くは相ノ島とよばれたが、慶長年間(一五九六―一六一五)に現名に改称といわれる(新編常陸国誌)。江戸時代は天領で、元禄郷帳には腋川村とあり、村高は一六八石余。幕末の村高は一七五石余(各村旧高簿)。字本郷ほんごうの水神社(祭神弥都波之売命)は延宝四年(一六七六)創立、嘉永四年(一八五一)社殿再建と伝え、明治四一年(一九〇八)新田しんでんの水神社を合併

脇川村
わきがわむら

[現在地名]山北町脇川

蒲萄ぶどう(七九五・四メートル)から西へ流下する脇川の右岸にある。西は日本海に面し、北はきつね崎を越え寒川かんがわ村に至る。康永元年(一三四二)八月二日の源某等二名奉書(三浦和田氏文書)に「腋川」とみえ、同所の者が陰謀を企てているとして、和田茂実に翌三日岩船(現村上市)に馳参じるよう命じられている。

脇川村
わきがわむら

[現在地名]黒滝村大字脇川

黒滝川の支流脇川流域にある。村名はワキの川(支流)に沿う集落の意といわれる。文禄五年(一五九六)九月の竹役催課状(楠山家文書)に「クロタキカウノ内ワキカワ」とみえる。黒滝郷のうち。慶長郷帳では村高八七・二四六石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android