脇元村(読み)わきもとむら

日本歴史地名大系 「脇元村」の解説

脇元村
わきもとむら

[現在地名]姶良町脇元など

おもい川の河口に位置し、東は海に臨む。西は平松ひらまつ村、北は帖佐ちようさ西餅田にしもちだ村。脇元浦がある。脇本とも記される。大口筋は薩摩大隅とを分ける白銀しろがね坂の峻険を経て当村と平松村の境に至り、脇元海岸沿いで思川を渡る。寛政(一七八九―一八〇一)頃は脇元橋で西餅田村と結ばれていたが(列朝制度・鹿児島県維新前土木史)、天保(一八三〇―四四)頃には「満潮の時は舟渡し」であった(三国名勝図会)。江戸時代は初め帖佐郷に属したが、元文三年(一七三八)重富しげとみ郷創設の際に同郷所属となった。

脇元村
わきもとむら

[現在地名]市浦村脇元

三方が山に囲まれ、西は日本海に面する。小泊こどまり道は海岸沿いに村を南北に走り、北は小泊村の支村折戸おりと(現小泊村)、南は磯松いそまつ村へ通じる。

寛永元年(一六二四)脇元浜とあり(津軽歴代記類)、正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳は脇本村、享保一二年(一七二七)には脇元村(平山日記)、そのほかの史料にも本と元は混同して使用されている。正保二年の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に三〇・二三石とある。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田畑屋敷合せて四町一六歩、村高二二・三三二石、うち田方三町九畝七歩、一六・二八八石、中田がなく上・下・下々田で、下々田が二町八反八畝一六歩、一四・四二七石とあり、畑方は下畑のみで二反五畝六歩、〇・七五六石、屋敷地が六反五畝三歩で、合計九反一畝ママ九歩、六・〇四四石であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報