帖佐郷(読み)ちようさごう

日本歴史地名大系 「帖佐郷」の解説

帖佐郷
ちようさごう

中世にみえる郷名。鍋倉なべくら平松ひらまつ木津志きづしなどを除く現姶良町に比定される。近世には鹿児島藩の外城の一つとなり、木津志を除く姶良町および加治木かじき辺川へがわが郷域となるが、江戸時代中期までに姶良町北部を山田やまだ郷、同町南西部を重富しげとみ郷として分出し、郷域は現姶良町中央部および南東部の別府べつぷ川と支流山田川が形成する沖積平野となる。

〔中世〕

暦応二年(一三三九)八月日の正八幡宮講衆・殿上等訴状写(隼人桑幡文書)によると、保安年間(一一二〇―二四)に摂関家の藤原忠実が正八幡宮(現鹿児島神宮)に「帖佐郷」を寄進している。大隅国建久図田帳には帖佐郡とみえ、総田数は二七一町大で、正八幡宮領・経講浮免・国方所当弁田からなる。正八幡宮領の本家は山城石清水いわしみず八幡宮、地頭は掃部頭(中原親能)、半不輸地で正税官物は国衙に納入、内訳は御供田九町七段小・寺田二六町六段・小神田六四町九段半・大般若田三町の計一〇四町二段三〇〇。経講浮免は一四町二段。国方所当弁田の内訳は万徳まんとく五町三段大・恒見つねみ(深水地内に恒見の小字が残る)八町七段大・宮吉五町・正政所一〇町・権政所五町・公田六八町四段半の計一〇二町五段大。三者の合計は二二一町大となり、前記の総田数二七一町大は誤写とみられる。なお「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)一〇月一七日条によると、これ以前に中原親能は正八幡宮寺の訴えにより地頭職を罷免されている。建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人注進状写(隼人桑幡文書)に、国方御家人として帖佐郡司高助の名がみえる。元久元年一〇月一七日、中原親能罷免後に再任された帖佐郷地頭肥後房良西ら三人の地頭は「造宮之功難成」しことを理由に地頭職を停止された(吾妻鏡)。承久(一二一九―二二)頃には、御家人良西が正八幡宮の神王面を奪取したため、幕府の裁定後に朝廷でも審議され、重罪に相当するとの裁可を受けて没落した(宝治元年一〇月二五日「関東下知状」新田神社文書)。御家人良西は帖佐郷地頭を罷免された肥後房良西であろう。

帖佐郷の具体的な在地の様相が判明するのは、建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)である。同配符写は文永の役後に幕府の命によって筑前博多湾岸に石築地(石塁)を築く際のもので、各自の所領面積とそれに応じた石築地の負担の長さを記したものである。ただしこの配符写にみえるのは帖佐西ちようささい郷で、総段別は二四〇町九段三〇〇歩、正八幡宮に貢進する貢進田五町を除いた定田は二三七町五段大(計算合わず)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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