胡適(こてき)(読み)こてき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「胡適(こてき)」の意味・わかりやすい解説

胡適(こてき)
こてき / フーシー
(1891―1962)

中国の学者。「こせき」とも読む。安徽(あんきアンホイ)省績渓県の人。字(あざな)は適之(てきし)、幼名は嗣(しもん)。1910年アメリカに留学、コーネル大学からコロンビア大学へ移り、デューイプラグマティズムの影響を受け、ヨーロッパの精神史における口語の役割を発見し、中国も言文一致であるべきことを主張し、『新青年』に「文学改良芻議(すうぎ)」を投稿して、文言文語)文を独占していた文人階級に衝撃を与えた。同誌の主編者陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)がこれを受けて「文学革命論」を同誌に発表し、伝統的文学観に対する「文学革命」の運動がおこった。帰国後は北京(ペキン)大学教授に迎えられ、新時代のホープと期待されたが、李大釗(りたいしょう/リターチャオ)との「主義と問題」論争でしだいに保守的改良主義者としての本質を現し、マルクス主義と対立して『努力週報』を創刊した。またプラグマティズムによる古典研究を提唱し「国故整理」を主張して実証的な古典研究の分野を開拓したが、1930年に『新月』、1931年に『独立評論』を発刊して「全面洋化」実現のため蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)政権に接近し、1938年には駐米大使として対日戦争のため努力した。1942年には行政院最高政治顧問、1946年北京大学長、1948年にアメリカへ亡命、1962年に台湾で病死した。自伝『四十自述』や『胡適文存』など多くの著書がある。

[尾上兼英 2016年3月18日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例