羽鳥村(読み)はとりむら

日本歴史地名大系 「羽鳥村」の解説

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]浜松市豊町ゆたかちよう豊西町とよにしちよう恒武町つねたけちよう常光町じようこうちよう

恒武村の北、豊田川流域に位置。豊田郡に属し、堤防に沿い細長い。中世には一帯に羽鳥庄が成立していた。松平忠頼領郷村帳では高四〇〇石余、田一五町二反余・畑三七町四反余、ほか諏訪領一石余、見成院(現源長院)領四石余。正保郷帳では高三三三石余、内訳は田一三九石余・畑一八八石余のほか、寺社領五石余。領主の変遷は大明神だいみようじん村と同じ。寛永八年(一六三一)の遠州豊田之郡羽鳥村新田検地帳(松島家文書)によれば新田畑一二町余で、その大半は下田・下畑であった。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では家数二七(すべて役家)。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)によると家数三六、うち本百姓二七、人数三七〇、馬一一、座頭一・大工二・木挽一。

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]藤沢市羽鳥一―五丁目・辻堂新つじどうしん町一―四丁目・辻堂神台つじどうかんだい二丁目

引地ひきじ川右岸に位置する。東は鵠沼くぐいぬま村、西と南は辻堂村、北の大庭おおば村との境を東海道が東西に通る。小田原衆所領役帳には関兵部丞「五拾弐貫四百拾弐文 東郡羽鳥 辻堂」とある。

旗本八屋領から寛永一〇年(一六三三)幕府直轄領。延享元年(一七四四)上野前橋藩領、文化八年(一八一一)旗本小笠原領。検地は天正一九年(一五九一)代官彦坂元正、寛文一二年(一六七二)同成瀬重治が実施。寛永一三年正月の田畠指出帳(藤沢市史一)によれば二三町一反余、高一三八石余であるが、寛文一二年四月の検地帳(三觜文書)では二四〇石余と増加している。元禄七年(一六九四)三月の藤沢宿助郷帳(県史九)では定助郷二四〇石を勤めた。

元和八年(一六二二)五月の草刈訴状(藤沢市史一)によると、総百姓は藤沢代官によって「藤沢之内にいの原」の草刈を禁ぜられたとして、退転覚悟で訴えを起こしている。

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]静岡市羽鳥・千代せんだい一丁目

藁科わらしな川左岸沿いに位置し、東は建穂たきよう村など。中世の服織はとり庄・服織郷の遺称地とされる。古代の渡来系秦氏の居住地と伝える(修訂駿河国新風土記)。慶長四年(一五九九)六月吉日の横田村詮法度(石上家文書)の宛所は「服織之郷惣百姓中」となっている。同九年一一月の年貢割付状(同文書)によると、「服織村」は高五三八石余、永荒皆川成五三石余を除いた村高に対しての年貢は二三六石余。

羽鳥村
はどりむら

[現在地名]佐倉市羽鳥

鹿島かしま川左岸の台地上に位置し、西は野田のだ村・飯郷いいごう村、南は亀崎かめざき(現四街道市)、北は飯重いいじゆう村。もとは葛飾かつしか郡のうちとされていた。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高一八〇石、一〇町の普請を割当てられている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では印旛いんば郡に属し、高二五〇石余で、佐倉藩領。以後幕末まで同じ。

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]天栄村羽鳥

牧之内まきのうち村の西、鶴沼つるぬま川上流域、奥羽山脈中の山間に立地。白河古領村郷高帳に村名がみえ、高二三三石余。安永二年(一七七三)の白河郡村々細見記(加藤家文書)では反別田四町三反余・畑二九町九反余、免二ツ九厘。天明三―四年(一七八三―八四)の冷害が大きく、同五年から三ヵ年間二分の定免制となった。家数三五、うち高持二〇・無高一四で善養ぜんよう(現新義真言宗)がある。正徳元年(一七一一)勢至堂せいしどう峠越よりも道のりも近く、難所もないことから福良ふくら(現郡山市)から馬入ばにゆう(標高八六三メートル)越で当村を経て黒川くろかわ(現西郷村)へ至る道(羽鳥通)が開発され、会津廻米道として活況を呈した(「家世実紀」同年一〇月六日条)

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]真壁町羽鳥

筑波山北麓の扇状地にあり、北は伊佐々いさざ村、西は山田やまだ村。「将門記」に承平七年(九三七)一〇月のこととして「十九日ヲ以テ、常陸国真壁郡ニ発向ス。乃チ彼ノ介ノ服織はとりノ宿ヨリ始メテ、与力ノ伴類ノ舎宅、員ノ如ク掃ヒ焼ク。一両日ノ間ニ件ノ敵ヲ追ヒ尋ヌルニ、皆高キ山ニ隠レテ、有リナガラ相ハズ。逗留ノ程ニ、筑波山ニ有リト聞ク」とあり、平将門は伯父の下総介良兼が拠った服織宿はじめ、協力者たちの家屋をことごとく焼払っている。

羽鳥村
はとりむら

[現在地名]美野里町羽鳥

園部そのべ川の左岸に位置し、南は大谷おおや村。古くは山前やまさき郷に属し、中世は宍戸氏、のち佐竹氏の支配下にあった。慶長七年(一六〇二)には秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に羽鳥村三二四・六九石とある。正保二年(一六四五)天領、万治三年(一六六〇)土浦藩領となり、寛文二年(一六六二)天領と旗本神田氏領となり、天領分は天和二年(一六八二)に宍戸藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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